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飢えに苦しんだ戦中・戦後、そして、表面的に豊かな高度経済成長、そして、バブル崩壊という
激変の時代を、北海道から広島までの各地を22回も移動する人生に、時として不可思議なことに出食わします。
年を重ねるに連れて不可思議なことが理解できるのかと思いきや、不可解のままでは癪なので、
自分に不利益になることは覚悟の上で、今まで誰にも話さなかったことを書き連ねてみます。
不思議なこと(上)目次 |
1. まえがき
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2. 幼児期の不思議な夢
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3. 幻聴?、くの一?
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4. 正夢(まさゆめ)
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5. 幽霊? 亡霊?
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6. 父妃殿下?
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7. 早逝された同級生
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8. 昔の師のお屋敷
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9. 飛行機のこと
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10. 火災の第一発見者
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11. ピシッという音
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12. こおろぎ
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13. 「おーい」と呼ぶ声
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14. クォーク粒子
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15. 教授の怒り
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16. 音楽の先生の怒り
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17. ゴータマ・シッダールタ
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19. ジェーン台風
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20. 平成10年台風第7号
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21. 首都高のランプでガス欠
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22. 私の目は青目 ?
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23. 前触れの夢 ?
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24. 父の宝くじが当選
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25. C型肝炎ウィルスに感染???
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不思議なこと(下)目次 | |||
26. あの光は何だろう。UFO ?
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27. 宇宙人の遺伝子や形態について
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29. 花火工場の大爆発
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30. 橋の下のバラック
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31. 家庭科の先生にほめられた
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32. 級友と化石取りに行った
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33. 仙台でのスケート
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34. 中2の愉快な仲間達
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35. プールにハリガネムシ
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36. 札幌の美人女子生徒
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37. カッコウ鳥の生の声
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39. 担任の先生の自殺
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40. 大きな事件・事故と関連すること
40.1 ある若い女性のこと
40.2 寿司屋での殺人事件
40.3 路面電車停留所の大事故
40.4 ゴルフ場拡張中のブルドーザー死亡事故
40.5 奥久慈・不動の滝の遭難
40.6 山火事に遭遇
40.7 フェリーで渦中の人に遭遇 ?
40.8 元ハイジャック関係に遭遇 ?
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41. 交通事故
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42. 那賀川の洪水に出会う
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43. 母の死
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44. 化学会社で起きた爆発事故の予感
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45. 東海道線刈谷駅の記憶
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46. スズメからの以心伝心
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47. 銀座散歩の怪
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48. TOKIO 騒動を予感した夢
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50. ビル火災の大惨事の予感
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51. なかにし礼氏の訃報の予感
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52. 森会長の失言騒動の予感
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53. プレゼントの予感
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54. ピロリ菌の除菌をしました
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56. 私にはホクロが1つもない
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57. 兆候
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58. 毎年一輪しか咲かないバラ
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59. 菅官房長官の泣きべそ
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60. 不快指数
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61. 私の血管年齢
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63. 私の大便は匂わない
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64. 新型コロナウィルスに感染 ?
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65. あとがき
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付録 1 夢の中で浮かび出た短い曲
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付録 2 福島県いわき市四時川渓谷の紅葉など
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付録 3 モミジの落ち葉
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付録 4 変わった道路表示と交通安全看板
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付録 5 ベニテングダケ
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付録 6 台風一過の夕焼け
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付録 7 晩秋における石楠花の狂い咲き
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付録 8 熱気球
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付録 9 和服姿のトイレ案内板
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付録 10 明日への希望が湧く夕空
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付録 11 伐採林
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付録 12 幻想的な海外のアート
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付録 13 鉄道線路を走行できるトラック
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1. まえがき
1942年(昭和17年)に、兵庫県武庫郡大庄村大字南開(現・尼崎市)にある日本石油㈱関西製油所の工員住宅で縁側の廊下に、母が足を投げ出していたときに、宅地内にある火の見やぐらに落雷し、母の下半身に電撃が走ったそうです。このとき母は私を身ごもっていたのです。
また、3才まで戦争中で米も食料もなく、狭い庭のハコベや芋のツルを食べ、サトウキビまで栽培して栄養を補っても、栄養失調になった母乳のカルシューム不足のため、私は重い乳児脚気にかかっていました。「牛乳を飲ませないと死んでしまう。」と医者に言われて母は、必死の思いでそれを手に入れたようです。都市部の庶民は牛乳も卵も全く手に入らない時代です。おそらく、よそ行きの一張羅の着物を質屋に入れて換金したのでしょう。母の涙を今でも感じています。
終戦直後に尼崎市西字本田の本田社宅に引っ越しましたが、床屋に行くときも大変で、バリカンで刈ってもらう間、火のつくように泣くので、連れて行く母親が戦々恐々でした。これを知った父の取引関係で懇意にして下さっていた富高さんが、わざわざ幼児の私のために、手動のバリカンをプレゼントして下さったのですが、母は不器用で、父は仕事が多忙につき、殆ど使わなかったようです。また、私が絵を描くのが好きなのを見て、私専用の小さな机を作って下さいました。
[註1] 聖鐘幼稚園、聖公幼稚園
1948年(昭和23年)に園長の笠井満男先生と奥様の武田昌子先生のご夫妻によって神戸市東灘区森にある戦前に建てられていた森会館(現在の森会館はこちら)を借りて開園した私立
聖鐘幼稚園
に、私は第1期園児として通っていました。母が尼崎市内の幼稚園に応募しようとしたところ、どこも定員満員でした。たまたま、阪神電鉄武庫川駅の脇の武庫川を渡る歩道橋で出合ったご婦人に「この辺に幼稚園はないでしょうか。」と尋ねたところ、そのご婦人が武田先生で、「神戸に私達が幼稚園を開園する予定なので、ご一緒に通いませんか。」と言って下さったのが切っ掛けでした。それで、毎日、もう1人の可愛い園児・高柳富貴子ちゃんと一緒に、両先生の引率で下り阪神電車の武庫川駅から西宮東口まで乗りました。そこで、園長の笠井先生が市役所に出勤され、あとの私達は
国道電車
(その2)
(当時、国道2号線[阪神新国道]
の中央に阪神電鉄経営の路面電車がありました)
に乗り換えて、「森市場前」という停留所で下りました。そこから北に歩いてまもなく、国鉄・東海道本線の踏み切りと出合う所にある聖鐘幼稚園に通いました。そういう関係で、私は先生方から可愛がられ、私が小学生になってからも、お子様がいなかった先生方に、六甲山上ピクニック、箕面の滝の炊飯ピクニック、仁川ピクニックセンターの炊飯ピクニックなど、行楽に連れて行って下さいました。どうも有り難うございました。御礼申し上げます。その10年後、聖鐘幼稚園に代えて、先生方は近くの東灘区中野に
聖公幼稚園
を発展的に開園なされたと、お手紙で伺っています。その後、まことに残念ではありますが、武田昌子先生がご逝去なされていました。笠井満男先生は現在(2005年頃)もなお、100歳のご高齢で神戸市須磨区で健在と伺っています。さらにご長寿であられますよう、お祈り申し上げます。
[補註1-1] 上記 六甲山上ピクニックについて
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尼崎市立大庄小学校に昭和24年(1949年)に入学し、1年1組、2年10組、3年1組を、豊田幸子さん、上島美智子さんとともに最優秀の児童で過ごし、毎年、学芸会では主役と準主役で演劇に出演して観客を沸かせていました。この3学年とも担任の先生は宇佐見孝先生(または、宇佐見孝子先生)[註2] でした。先生には大変可愛がっていただき、また、大変お世話になりました。有難うございます。
[註2] 宇佐見孝子先生、宇佐見正氏(その2、その3)
: 1949年4月から1953年3月までの小1から小3までの間ずっと学級担任でいらした宇佐見孝子先生は、京都ご出身の上品でかつ温かみのある大変教育熱心な先生で、すべての児童を優しく教育して下さいました。朝日新聞社にお勤めになられていた旦那さんはお亡くなりになっておられて、未亡人でした。ご子息様の宇佐見正氏も神戸大学経済学部をご卒業の後、朝日新聞社に入社され、新聞や週刊朝日や著書等に皇室関係や宝塚歌劇団関係の執筆で著名であられました。お二人とも兵庫県芦屋市公光町にお住まいでした。宇佐見孝子先生には私の勉学や日常生活に、また母をも含めた交流に、多大なお教えとご支援を賜りました。厚く御礼申し上げます。まことに残念ではありますが、先生はご高齢で1970年代にお亡くなりになりました。 話は変わりますが、当時はテレビ放送は未だ始まっておらず、ラジオ放送のみで、「話の泉」や「とんち教室」など、NHK第一放送の夜の番組がお茶の間を楽しませていました。 |
特に、昭和27年(1952年)、芦屋市立精道小学校4年生 [註3] のときに図画工作担当の伊藤慶之助先生
(その2 〔ここに伊藤慶之助先生のお写真が載っています〕)
(その3)
(その4)
(その5)
(その6)
(その7)
(その8)
(その9)
(〔註〕その5~8はインターネット・アーカイブのバックアップ版〔backup at the Internet Archive〕より)
のご指導の下、神戸港のビル解体現場を描いた「工事場」というタイトルの水彩画が第25回兵庫県小・中・高校絵画展(1952年)で特選を取ってしまい、神戸のあるデパートの展覧会場に飾られました。その絵は返却できないということで、兵庫県教育委員会に飾られた可能性もあるようです。半年後に私の家族が仙台に転居したため、返却されない仕舞いになってしまったのかも知れませんが、真相は分かりません。
[註3]
飴慶雲先生、(その2)
(両者ともインターネット アーカイブより)
: 飴先生は、1952年度(昭和27年度)、兵庫県芦屋市立精道小学校4年2組の担任の先生でした。先生は殆どの科目において万能な、大変教育熱心な優秀な先生で、スパルタ式教育を標榜していました。体育の時間には、得意の大車輪を披露して下さり、跳び箱の上で回転する競技をクラスの児童全員が出来るまで、放課後にかかっても熱心に指導して下さいました。音楽の時間には、ピアノでジャズ演奏を披露して下さいました。理科の授業には、かなり高度の化学実験を披露して下さいました。また、定期的に運動場で校内の全児童に、各種の行進曲に合わせての行進の練習を指導されていました。美しい行進が人生の基礎とお考えになっていたと思われます。 なお、伊藤慶之助先生の"下のお名前"と"先生の関連サイト"は、サイト「伊勢志摩きらり千選」の『みんな投稿欄』での偶然の出会いで、アートタキ (その2) (その3) (その4) (その5) (その6) さんから教えていただきました。具体的には、『みんな投稿欄の9月14日(月) 11時26分のアートチキさんの投稿欄で9月14日(月) 20時0分に私(N.Y.)が「伊藤先生」の消息をお伺いしたところ、9月19日(土) 19時50分にアートタキさんが私に回答して下さった』ということです。2009年のことです。有難うございました。 また、私が2009年8月30日(日)夕方に三重県志摩市阿児町立神にある西山慕情ケ丘展望台に来たとき(下図参照)に、偶然、石倉 明氏(伊勢の方)と「志摩の鳥人(その2)」で有名な松本高正氏と出会い、石倉氏(昔のハンドルネームが「A.I」さん、現在のハンドルネームが「キラキラ親爺」さん)が投稿されているサイト「伊勢志摩きらり千選」を教えていただいたことが切っ掛けでした。有難うございます。 |
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2009年8月30日(日)夕方 |
こうして、幼稚園、小学校と中学校1年生までの少年時代は、いつも世の中が自分を中心に回っていて平穏に過ごしたのですが、・・・。
もう1つ、中1の冬(1956年[昭和31年]2月)に、家近くの三宗の丘の小道を1人でスキーで滑走していたときに、Y 字形に小道が合流する地点で6人の少年少女の乗った鋼鉄製の犬ゾリと衝突し、私のスキーはソリの下にもぐりこみ、私の体はソリに乗った少年たちの上を飛び越えて、
[閑話休題] 中学校1年の初夏、私は同じ日本石油社宅の二通さんのお兄さん(当時、中学校3年)と近所のそのお兄さんの同級生の方に連れられて、近くのミツムネの丘を散策しました。このとき、同級生の方がどこか藪の中から採ってきた「マツの実」とかいう木の実を分けて下さいました。形と大きさは普通のグミの実そっくりで、色はベージュ(薄茶色)、口に含むだけで薄皮が破れ、この世と思われない甘くて深みのある特有の味の果汁が口いっぱいに広がります。私はこのとき、こんなに美味しい果物がこの世にあったのか、と感動。しかしその後、2012年8月になる今まで、再びその果実を口にする機会がありませんでした。あれは何の実だったのだろうかと時々思い出すだけです。
このときに、「ケ・セラ・セラ(その2)」と「雨に歩けば(その2)」というアメリカのヒットチャートが日本でも爆発的にヒットしました。この2曲は大変懐かしいですが、私の甘くて苦くて辛い大学生前半までのハイティーンの幕開けのようでもありました。当時、北海道の若者は、その言葉はぶっきら棒でゴッツイですが性格は大らかで呆気羅漢としていて、国内の歌謡曲だけでなく、外国のヒットチャートを大いに好んでいました。それを受けて、HBCラジオ(北海道放送)やSTVラジオ(札幌テレビ放送ラジオ)、さらには、NHK でも盛んに色々な歌が流れていました。当時は、マスコミから流される音楽のジャンル(種類)が多く、歌謡曲、NHKラジオ歌謡、演歌、シャンソン、タンゴ、ブルース、ラテン、ジャズ、ブギウギ、エレジー、ビギン、ロカベリー、ウエスタン、ポピュラー、ポップス、ロックンロール、ロック、サンバ、マンボ、ボサノバ、ジルバ、ルンバ、ドドンパ、チャチャチャ、映画音楽、テーマソング、フォークソング、フォーク、フォルクローレ、カンツォーネ、ハワイアン、タヒチアン、クラシック、セミクラシック、オペラ(歌劇)、オペレッタ、歌曲、ワルツ、ポルカ、マズルカ、ヨーデル、宝塚歌劇、世界各地の民謡、教会音楽、賛美歌、ムードミュージック、ミュージカル、行進曲、現代音楽、グループサウンズ、ギター弾き語り、ウクレレ弾き語り、カントリー(ソング)、ニューミュージック、ニューサウンズ、民族音楽、中近東(アラビア、トルコ)風の曲(または、ベリーダンスの曲)、ガムラン音楽、学校唱歌、子守唄、童謡、童歌、日本民謡、浪花節(浪曲ともいう)、常磐津、浄瑠璃、義太夫、謡曲、雅楽、奏楽(雅楽を模したもの)、長唄、清元、筝曲、小唄、俗曲、都都逸、それと、昭和25年(1950年)前後にNHK第2放送で週日の午前における学校放送の番組と番組の間に流れていた3拍子の10小節から16小節の綺麗な小曲(室内楽、または、オルゴールのような演奏で、著名な作曲家が作曲していたと聞いています)、詩吟、アイヌ民族の歌と楽器演奏、当時のコマーシャルソング、寮歌、応援歌など非常に華やかでした。ここに書きたくないのですが、なつかしの曲として軍歌も時々流れていました。
2017年11月ごろの NHK FM 放送で、歴史的に正統と覚しき大和歌というものがあることを初めて知り、その放送で流れてきた上品な歌に聞き入ったのでした。 1950年代の小学校5年生で私は、「心に太陽を、唇に歌を」と習いましたが、正統な音楽を再認識して義務教育に盛り込めば、もっと潤いのある明るい世の中になると思います。 [参考] 中学校1年の同級のある女子の方が2011年11月に私のことを思い出して仰るには、「今風ですと完璧なイケメンさん、当時は乙女心に上品でお目々が綺麗だなぁ~とお見受けしておりました。」と人づてに伝えられました。嬉しいではないですか。(皆々様、有難うございます。多謝。もし、この掲載にお怒りならばご連絡ください。削除いたします。) 私の妻がひたちなか市佐野公民館の主催事業である「ギター教室」に月2回のペースで習っていますが、2012年1月11日に、千葉慶博先生の奥様の毎子様が私の妻に「あなたの旦那さんは素敵ね。ご一緒にギターを習われたらいいのに。」と言われた由。私はもう69歳になっていますが、そう言われるとやはり嬉しいですね。手前味噌ですが、こういうことは時々あり、よって私は人前に出るのをためらうのであった。 以上の生い立ちを勘案の上、以下をご覧ください。 return |
2. 幼児期の不思議な夢
(1) 未だ歩けない頃、母が外出している間は布団に寝かされています。周りが暗くなっても母は帰っていません。そのうち、畳の下から大きな赤い手が2本、私の体を蹂躙します。私は恐ろしさにギャー。母の帰宅まで泣き続けます。この夢とも現実とも区別がつかないことが再三起きました。 return |
私が東北大学工学部に入学したのが1962年。広瀬川畔の下宿専門のアパートの2階の4畳半に下宿をしていました。このころは「I Can't Stop Loving You(愛さずにはいられない)(その2)」や「可愛いベイビー(Pretty little Baby」や「Vacation」がヒットしていました。これらの前年のヒット曲「悲しき片想い(その2)(その3)」も 2、3年間、ラジオからよく流れていました。
首を傾げまして、向かいの家に関係するのでは、と感じました。それが繰り返されるので、「おかしなこともあるものだ。」と濃霧の中を下宿から離れて夜の散歩に行きましたが、左耳奥のその声はついてきます。翌朝もその現象が続くので、一緒に朝食を共にした下宿生達にその声が聞こえるかを尋ねましたら、誰も「聞こえない。」と言います。ウーン。真向かいの自分だけ狙われたのかな。 向かいの屋敷は青葉城に最短距離にある要害の地形をなしていて、伊達藩時代によそ者を警戒する忍者の末裔なのかも知れない、と想像を巡らすものの、私の奇妙な現象を説明できません。「幻術でやられたのかもしれない。」と思って一寸怖くなりましたが、幻聴以上のことはなく、特に気にしなければそれで済みます。この幻聴はどういう理屈で起こるのだろうかと、心霊研究所に相談しようかとも思ったわけです。興味半分に「よし、向かいの屋敷を探って見ようか。」とも思いましたが、探る術はなく、このままではマズイので下宿を変えました。しかし、以前ほどではなくなりましたが、時々、屋敷のある方向からその同じ声がレコードのように左耳奥に感じました。
[註4] この姉妹の母はいつも地味な和服姿であるが、長身で精悍な感じ。父は小柄。姉妹のさらに上に結婚している姉とその幼女が同居し、姉妹の下に弟もいるかなりの大家族。この家の男衆は目立たずおとなしい。いつも女性の立ち振る舞いと声が目立ち、いつも幼女に大声で「アッ子、アッ子」と呼んで可愛がっている。この姉妹2人の上の娘とは、私たち下宿生と前の路上で時々立ち話をしていた。町内の夏祭りの野外映画を見ていたとき、ふと後ろを振り返ると当時高校生であった下の娘が私の後ろにピッタリとくっついていたのでビックリしたことがある。後年、小学校の同窓会名簿で分かったのですが、結婚していた一番上の姉は、なんと、私の小6 のときの隣のクラスの子であった。
なお、この年1963年にザ・ピーナッツの「恋のバカンス」が爆発的に流行していました。
なお、3年の夏休みは、父の転勤先である広島市に帰省し、この夏だけは大いに遊びました。父の自転車で国道2号線を広島から宮島、さらに、山口県岩国市の錦帯橋に行くなど、広島市内はもちろん、広島県内をサイクリングに明け暮れていました。4年の夏休みは、東北大工学部電子工学科から派遣されて日立製作所茂原工場に1ヶ月近くの工場実習でした。 さて、元に戻って、前記の「皆目分からない」ことは、常人が何気なく体験するという空耳とか以心伝心の類なのか? しかし、年とともに勘が鈍くなってこの現象はほとんどなくなりました。逆に、これは若さがなくなるようで寂しくもあります。
最近では珍しいことですが、ある朝、起き掛けにリラックスしていると、不意に、左耳奥に誰か女性がつぶやくような「暮らしていけない!」という声ともいえない声のようなものを感じました。「アレッ?」と一寸驚きながら、それは私の意識の外のことであり、我が身と周辺を考えても思い当たる節がありません。近隣の誰かがお金の工面で苦労しているのかな、と真偽は分かりませんが思い過ごすわけです。まあ、空耳でしょう。
また、一頃、頭が冴えている状態で1人で運転しているある日、たくさんの対向車とすれ違う中で、一例として、ある車がすれ違った瞬間に「ムショ」という言葉が左耳奥に飛び込んできました。咄嗟に、あの車の運転手は刑務所に入ったことがあるのかな、と思ったわけです。同時に、もし、私の欠点が他人に同じような現象で伝わったとしたら嫌だな、と緊張し、慎重になることもありました。思い過ごしとは思いますが。 return |
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【「以心伝心」と「幻聴」の実演をテレビ放映】
2021年12月1日(水)にテレビ朝日 19時からの番組「たけしの超常現象!?不思議だなニュース」の後半に、ブレインダイバーと称する若い方 (新子景視氏) の「脳内に飛び込む男の神業連発」という不思議な実演が放映されました。
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【「以心伝心」と「幻聴」の実演をテレビ放映】(その2) 2022年7月9日(土)にテレビ朝日 23時からの番組「出川一茂ホラン☆フシギの会」の中頃で、ブレインダイバーと称する若い方 (新子景視氏) の「脳内に飛び込む男の神業連発」という不思議な実演が、再度、放映されました。
1つ目は、街中の初対面の若い男性に新子氏が「幼稚園や小学校土台の初恋の相手の下の名前を自分に話しかけるように強く念じて下さい」と問うと、10秒ほどで「まい」とその名を正しく言い当て、その若い男性と付き添いの女性2人が非常に驚いた。
以下は、スタジオ内での生撮影。
3つ目は、スタジオで、長嶋一茂さんに新子氏が「小学校の初恋の相手の下の名前をひらがなで紙に書かせて、それを一茂さん自身のの胸に当てさせて、一茂さん自身の頭の中で「その名前を叫んでください」と問うと、十数秒ほどで「ゆみこ」とその名を正しく言い当て、一茂さんしか分からないはずの初恋の人の名を言い当てたことに、一茂さんは勿論、同席していた出川さんとホランさんも非常に驚いた。新子氏いわく、「一茂さんの頭の中に入り込み、初恋の人の名前が分かった」とのこと。
4つ目は、2人の感覚を繋げ、一茂さんの思考を出川さんが読み取る。という実験。両者、向かい合わせに立って互いに目を合わせ、新子氏が一茂さんに「一茂さんはご自身のことを出川さんだと思ってください」と話しかけ、出川さんに「出川さんはご自身のことを一茂さんだと思ってください」と話しかける。次に、両者に深呼吸をさせ、新子氏がパチンと指を鳴らし、両者を左右の離れた椅子に座らせる。そのときに新子氏が一茂さんに「ふわっとした感覚がしませんでしたか ?」と訊くと、一茂さんが「何かちょっと。(ふぁっと)した。おかしい」と答える。向かって一番左側に立って見ていたホランさんは咄嗟に「ええっ。うそでしょ」と一茂さんに言うと、一茂さんは「本当。本当」と答える。そして、新子氏が50枚ほどのたくさんのカードから一茂氏に一枚選ばせて、そのカードに書いてある言葉を一茂さんだけ見てもらい、周りに見えないように、カードの言葉を紙に書いてもらい、それを一茂さん自身の胸に当てて持たせる。出川さんに目隠しをし、「出川さんの第3の目、額に触れますと、出川さんは頭の中で声が聞こえるようになりますので、両耳を手で塞いで、頭の中の声に集中してほしい」と出川さんに言い、一茂さんには「選んだ言葉を頭の中で言っていただきたい。頭の中でイメージを送っていただきたい」と頼む。すると一茂さんは「変なんだけど、何か送れそうな気になっている」と言う。すかさず、新子氏は「その気持ちが大切です。今、お二人の感覚が繋がっていますので、薄くならないうちに」と言い、新子氏が出川さんの額に指を当てると、しばらくして、出川さんが突然、立ち上がりながら、「えっ。もう、ちょっと待って。何これ、もう、怖い ! 怖い ! 先生。えっ。もう、怖い ! 怖い ! 先生」と叫び始める。それを見ていたホランさんは、「何。何。えっ。何か聞こえるの ?」。出川さん、「何かじゃなくて。えっ。これ言っていいんですか ? 先生。何かじゃなくて、起こった現象を言っていいんですか ?」と言うと、新子は「はい。はい」と了承。出川さんは「はっきり聞こえたの」。ホランさん、「ええーっ」。番組のスタッフが、「ちなみに、何が聞こえたのですか ?」と訊くと、出川さんが「ウーパールーパー」と答え、何と、それが一茂さんしか見ていないカードの言葉であった。一茂さんはじめ、番組に居合わせた一同は、信じられないことが起こった、と驚愕の表情。テレビを見ていてた私は、幻聴を経験したことがあるので、その現象の本当の真実を知りたいと思った。
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4. 正夢
私の学部、および、大学院時代の1964年から1970年にかけて、4つの正夢を見ました。普通の夢は今もほとんど毎日見ています。平穏な夢ばかりです。
(1) 1953年、仙台の日石社宅に両親と住んでいた小5のときに、母と私が買って食べた柿が余りにも美味しいので、その種を庭に撒いたところ芽が出て、2年後に50センチの若木に成長しました。葉っぱが丸いのを見て母は「これはきっと美味しい甘柿ができるでしょう。楽しみだわ。」と期待しました。が、1955年6月に北海道札幌郡手稲町に引っ越すことになり、柿の木も植木鉢に入れて持って行きました。北海道では柿は育ちません。それで、植木鉢のまま、剪定しながらいつも室内に置いていたわけです。北海道における日石の拠点が小樽から札幌に移転してしばらく後の1957年12月に、札幌市南25条西9丁目に日石アパートが完成し、我が家も柿の木を連れて移転しました。さらに、1964年の4月に父の転勤により、家族が札幌から広島に移転したのです。広島では、当然、柿の木は育ちますので、庭に移植し、9年振りの地植えとなりました。
(2) 大学院修士課程1年末の1967年早春に仙台の下宿で夢を見ました。ある家の2階の窓から眺めると、直ぐ前に窓と同じ高さに堤防があり、幅50メートル位の川の向こうにも堤防があって、その向こうは瓦屋根の続く住宅がたくさん見えます。大阪の淀川の風景かな。イヤ、淀川にしては川の幅が狭すぎるなあ。夢は天然カラーです。向こうの堤防に近い住宅の1戸1戸をはっきりと記憶できて目が覚めました。
(3) 学部4年の1965年秋に奥松島のサイクリングに1人で行き、滅多に観光客の来ない隠れポイントの絶景を巡って楽しみました。が、帰り道、まだ奥松島の丘陵地帯の砂利道を上り下りしているうちに、夜の帳が落ち、同時に、西の方から雷雨が襲ってきました。激しい雷雨の中、民家も人も車もいない無人地帯を、とにかく仙台へ向けてずぶぬれになりながら必死に自転車を漕ぐのであった。3時間の後、ネオン瞬く仙台市内に戻りました。
ありました。見当を付けた場所から見た景色は夢とほとんど同じでした。今までも正夢を見てきましたので、驚きよりはヤッパリという感じでした。その場所とは、岩清水八幡宮の境内の北はずれです。今までその場所を知らなかったのですが、このお陰で、歴史や古典文学で有名な岩清水八幡宮に来ることができました。向こうに見える山は天王山で、下に見える例の場所は、1582年に本能寺の変で織田信長に謀反を起こした明智光秀が、備中(岡山県西部)から急遽取って返した羽柴秀吉に天王山の戦いで敗れた場所です。
よく言われますが、初めて行った場所なのに、前に来たことがあるような懐かしさを覚えると。上記の正夢もこの類の延長にあると思います。なぜこのことが起こるかは分かりません。いろんな理由があると思いますが、1つに、誰かが眺めた景色が何らかの理由で別の人の脳裏に伝わったのかな、とコジツケたりもしていますが・・・?
(5) 竜巻
2016年6月19日(日)曇
(6) 蛇
2017年2017年2月4日(土)快晴、日中、旅行先の山梨県内の車内は暑さを感じる
(7) ネイサン・チェン選手の逆転優勝
2021年3月27日(土)快晴、暖かい
その他、いくつかの予感が当たった出来事が、 予感1、予感2、 予感3、予感4、 予感5、予感6、 予感7、予感8、 予感9、予感10、 にあります。 return |
5. 幽霊? 亡霊?
ン? 頭の左側1メートル、畳から30センチの所に何かいるような気配。部屋は真っ暗なので何も見えませんが、その人間の頭の大きさ程度の部分が周りの空気と違います。ジーと音ともいえないかすかな音のようなものがあり、何かエネルギーが溜まっているような。とて、起きるほどの勇気と元気もありません。何だろう。耳を澄ませますが、最初はそこにじっとして、それ以上のことは起きません。緊張して動悸は早まります。とにかく眠らなければ、と焦りますが、段々とそういう心境ではなくなってきました。30分経った頃、その見えないエネルギーの塊が自分の左側をゆっくり足のほうに移動します。かすかなジーという音を伴うかのように。??? それが少し離れたので気はやや楽になり、「気のせいかな、登山の疲れと暑さに気がおかしくなっているのだ」、と思いつつも念のため、電灯を点けて部屋の中を点検しました。しかし、家具のない部屋は別に異常ありません。「やっぱり気のせいだな」、ということで電灯を消して眠る努力をしました。暗くなるとやはり警戒心がもたげます。5分間位は暗くなっても静かで何も異常はなかったのですが、・・・。
しかし、また次第にあの変な空気の塊が枕元に現れるのを感じます。「大変だ。また、出てきた。」。「出あがったな。このヤロー。只じゃ置かないからな。」と心でその得体の知れぬ物を脅します。その物はまた移動を始め、今度は右を回って腹から胸の上に来ようとします。気味が悪くなって、飛び起き、再々度電灯を点けて点検し、30分位点けっ放しにして様子を伺いますが、何ともありません。古びてはいるけれど、布団が敷かれた普通の畳部屋があるだけです。焦りと恐怖と睡眠不足でもうフラフラです。あの暑さは引っ込んでしまいました。時間を確かめる心の余裕もありません。夜中の2時かな。 数回これが繰り返されましたが、ついに、その得体の知れない重い物が胸の上に居座ったとき、なぜか急に呼吸が出来なくなったのですよ。恐怖で鳥肌が立ち、「命が危ない!」と飛び起きて、電灯を点け、目を皿のようにして何気なく鴨居を見ると、その真ん中に、縦5センチくらい、横2センチくらいで、黒と朱色のお経が書かれた札が貼ってあるではありませんか。さらに、他の3面の鴨居にも同じ札が貼ってあります。こんなのは後にも先にも見たことがありません。「ああ、この部屋に何か大きな事件があったな。」と思いました。「危なくて、この部屋には寝られない!」。震える体をおして、旅館の主人を呼ぶと、主人と奥様がやって来ましたので、私は部屋に招いて、あの札の経緯を尋ねました。そのご夫婦は正座して下を向き、身動きもせずに黙ったままです。私もご夫婦の向かいに座って、この 2 時間の出来事を話し、「この部屋に何かあったのですか。」と聞いても、やっとただ一言、小声で「どうも済みません。」。宿泊を無理にお頼みしたことをすっかり忘れて、恐怖心から、私は「こんな部屋に泊まれるか。もう帰る。料金はいくら?」と言ってしまったのです。「いや、料金は要りません。どうも済みませんでした。」と、申し訳なさそうに頭を垂れながら、憮然と立ち去る私を見送ってくれました。 この後、高崎駅まで深夜の町を歩いて行き、丁度到着した登山客で満員の上野行き臨時急行で早朝上野に着き、急行「まつしま」で仙台に帰り、通常の日常生活に戻りました。恐いので、このことは少なくとも1年間は人に話さないで置こうと思いましたが、結局、ここで公表するまで誰にも話していません。あれは真夏の夜の悪夢だったのか? ちなみに幽霊などは今でも信じてはいません。だけど、あれは何だったのだろう。 return |
6. 父妃殿下?
父妃殿下とは当時私の左耳奥に飛び込んできた言葉で、妃殿下の父と解釈してください。
当時そういった社会の底流を反映してか、「瀬戸の花嫁(その2)」の歌謡曲、「ひみつのアッ子ちゃん(その2)」の漫画、「白いブランコ」や「天使の誘惑(その2)(その3)」や”京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり”の歌詞で風靡した「女ひとり(その2)」[註5] や「白い色は恋人の色(その2)」や「禁じられた恋(その2)」や「この広い野原いっぱい(その2)」や「夜明けのスキャット」や「風がはこぶもの」などのポップスが流行っていました。また、原曲は1956年アメリカなのですが、フランスに渡ってシャンソンとなった「パパと踊ろうよ」が1960年代に日本でもラジオからよく流れていました。1965年フランス発の次の曲もあります。「そよ風にのって」。逆に、1968年にアメリカでヒットしたポール・モーリア・オーケストラ演奏の「恋はみずいろ(その2)」もラジオからよく流れていましたが、最初は1967年にルクセンブルクのヴィッキーが歌っていたそうです。オーケストラでも、例えば「夏の日の恋(その2)」や「白い恋人たち」や「ムーランルージュの歌」や「魅惑のワルツ」のようなムードある曲が多くメディアから流れていました。大分遡りますが、1956年の映画「80日間世界一周」のテーマ曲(その2)(その3)が10数年にわたってよく聞かれ、海外旅行ブームの火付け役になっていました。また、だいぶ後になりますが、1971年に、シモンズの「恋人もいないのに」、ザ・フォーク・クルセダーズの「あの素晴らしい愛をもう一度」のような純愛と悲恋を唄う歌や、黛ジュンの「雲に乗りたい」という憧れを歌う歌もあり、そして、団塊の世代の結婚ブームの1973年にチェリッシュの「てんとう虫のサンバ」が、1974年にダ・カーポの「結婚するって本当ですか」がありました。逆に遡れば、1962年に、Ray Charles が歌う 「I Can't Stop Loving You(愛さずにはいられない)(その2)」やコニー・フランシスの「Vacation」と「可愛いベイビー(Pretty little Baby)」が連日ラジオから流れていました。また、1965年に「そよ風に乗って」というさわやかできれいな曲や「砂に消えた涙(その2)」という感傷的なヒット曲がありました。その他、1960年代はそういったジャンルのポップスが世界各国から発信されていました。
直接関係ないのですが、上記の少し前に、父の所に、和紙の巻紙に達筆な筆で、要約すると「貴殿の息子様(つまり、私のこと)に、娘を是非お嫁に差し上げたい。息子様が未だ学生さんなので、生活費は私が全て面倒を見ます。」というご丁寧な書状が舞い込んだことがあります。父は困惑して、私に簡単な説明程度で「お前が未だ学生だから、お断りしよう。いいな。」と言うのを私も了解して、父は丁寧にその書状を返還したことがあります。今思うに、何方からどういう経緯で結婚を申し込まれたのかを、父に詳しく聞いた方がよかったのかな。
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7. 早逝された同級生
私が40才代からこれまでに気になっていました同級生諸兄のことをまとめて書かさせて戴きます。期日はあいまいですので書きません。 return |
8. 昔の師のお屋敷
私が小学校3年のとき、定期的に近所のお友達と阪神電車・武庫川駅の近くにあるお習字教室に通っていました。一戸立てのお屋敷の玄関脇の部屋を教室として使っていまして、お習字の先生は、兵庫県立尼崎高校の先生でもありました。翌年に私が仙台に引っ越しましたので、その後、そのお教室のことはトンと忘れていました。 return |
9. 飛行機のこと
1945年までの太平洋戦争中に、兵庫県武庫郡鳴尾村州崎(現・西宮市)の大阪湾に注ぐ武庫川の河口に川西航空機製作所があり、時々、日の丸を両翼に付けた飛行機が爆音とともに私の家の屋根すれすれの低空飛行をしていました。これが恐ろしくて、庭にいても家の中に駆け込んで逃げたものです。 return |
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10. 火災の第一発見者
これは不思議なことではないですが、普通ではまず経験しないであろうということがありました。 return |
11. ピシッという音
私が前触れがなく突如として気分が爽快になった瞬間、建屋の柱、または、天井、時には外壁がピシッと鳴るのを若いときから現在まで経験してきました。取り立てて言うほどのことではないのですが、不思議なことに、気分の切り替わりに高い確率に起こるのです。これは自宅に限らず、どの家屋でも、木造でも、鉄筋コンクリート造りでも、旅先のホテルでも、昼夜を問わず起こります。私の気分次第のところがありますので、数日何も起きないこともあれば、1日に数回起きることもあり、予測は全くできません。突然です。同じ気分の切り替わりでも、気分が悪化する場合は全く起こらないのです。必ず、無意識のうちに爽快な気分に切り替わる瞬間だけビシッという音がするのです。その音で、得も知れない満足感がやって来るわけです。私の緊張感の開放が、建屋に懸かっている何らかの歪の力の解放を呼び起こすような感覚なのです。 return |
12. こおろぎ
現在、私の寝室の縁先に秋になると毎夜1匹のこおろぎが切ない声で鳴いています。20数年前から毎秋、同じ鳴き声で同じ場所に1匹だけ鳴いています。何代目のこおろぎかな、とその度に考えるのですが、鳴く特徴が同じなので、ひょっとして、このこおろぎは越冬して何年も生きているのではないか?、と疑ってもいます。 return |
13. 「おーい」と呼ぶ声
誰もいるはずのない場所で、遠くから「おーい」と呼ぶ声を聞いたのは、今までに3度ありました。
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1965年5月5日(水) 宮城県柴田郡川崎町笹谷にて |
1967年11月に私たち八田研究室の芋煮会が二口峡谷で行われました。八田先生を始め、車を持っている人の車で分乗して仙台から2時間近くの峡谷に辿り着き、15人くらいのメンバーで飯ごう炊飯と芋煮の行楽を楽しみました。そのうちの何人かは近くの大東岳登山をして戻ってきました。私は登りません。芋煮会が終わり、15時過ぎに八田先生始め大半の人は車でお帰りになりました。正式な登山姿の佐藤益美先生(山形大学工学部名誉教授)が、二口峠を越えて山形県側の遊仙峡を経て山寺に抜けるコースで帰るというのです。先生の声掛りで、私を含めた数人が参加しました。出発してまもなく雨が降り始めましたが、たいした雨ではなく、峠もきついものではなさそうなのでそのまま進みます。そのうち雨が雪に変わり、夕暮れの薄暗がりとなり、次第に登りが急斜面となってきます。登山道はぬかるんでスリップもします。雨と雪と汗で全身ずぶぬれ。足元は泥んこ。夜に入り真っ暗になりましたが、体力はありますので皆そのままジグザグの登山道を急登します。さらさらと雪は益々強くなって、周りは白くなりました。そのうち、行く手よりやや南の遠い暗闇の斜面から「おーい。」と誰かが呼んでいるような声を耳にします。多分聞こえているのは私だけでしょう。それでも皆と一緒に登って行きますが、その呼び声が繰り返しあるので、私は皆に、「これ以上進むと危ないので引き返しましょうよ。」と言いました。すくさま皆は「そうしよう。」と賛同し、真っ暗ななか、雪や雨の泥んこの道をホーホーの態で何キロか下り、やっと、最初に人の気配のする小さなロッジに辿り着きました。ここの管理の叔母さんにタクシーを頼んでもらい、かなり長時間待った後にタクシー2台がやってきました。真っ暗な雨のなかをタクシーで仙山線の熊ヶ根駅に着けてもらい、ここから列車で帰仙したのでした。ずぶ濡れで泥んこの我々に、タクシーの方にはご迷惑を掛けました。 return |
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1965年5月21日(金) 天候は、南のち西の風、曇時々晴、15時に激しい雷雨、のち晴、 気温、15度から20度の間 |
私が大学院時代の1960年代後半、専門のプラズマ物理学の他に、個人的に素粒子物理学を勉強していました。当時は名古屋大学理学部の坂田昌一教授が提唱した坂田モデル(世界の主要な研究施設で、実験的に素粒子が限りなく新発見されて、陽子、中性子や各種の中間子が素粒子としての資格が問われた時代です)が国内外の理論物理学で注目されていて、名古屋大学や京都大学の理学部の研究者たちによって、坂田模型を中心に活発な理論研究活動が続けられていました。その直後、アメリカのゲルマンによってクォークモデルが提唱されました。おそらく、彼は坂田モデルを模倣したものと思います。まもなく、彼はノーベル物理学賞を受賞していますが、未だ、クォーク粒子は3種でした。 return |
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(旧称 日本原子力研究所東海研究所)にて 2007年7月27日(月)撮影 |
15. 教授の怒り
東北大学工学部電子工学科5期生である私達のクラス54人が4年になって間もない1965年5月に、卒業後の進路希望の調査がありました。当時の大学院進学は学部の3分の一の狭き門でした。
教授室に呼ばれた私の場合、和田先生と菊地先生が大きな紙の成績表を見ながら、和田先生が「君を松下電器か東芝か日立を推薦してあげようと思うが、どうかね。」と切り出し、私が、「大学院で是非研究活動をして世の役に立てたいと思います。」と言うと、先生方は改めて成績表を見て、「ウーン。確かに君が希望する理由は分かる。だが、松下ならば特段で推薦してあげるよ。」と仰るのを私が再度進学希望を述べると、先生方は直ぐに就職への説得を諦めました。 最終的に、進学希望者は18人に絞られ、9月に実施された大学院入学試験にはその全員が合格し、外部からの合格者1名を加えて、大学院工学研究科電子工学専攻には19名が進学することになりました。ちなみに、試験科目は、英語、ドイツ語、電気磁気学、電気回路学、電子回路学だったように記憶しています。そのレベルはやや難しい程度のものでした。 この優秀なクラスから、フラッシュメモリの発明者である舛岡富士雄氏(東北大学名誉教授)が輩出しています。 詳しくはこちら 。 現在、大学生の学力低下が嘆かれています。上述の再現が望まれる所です。
[後日談] 大学院希望の学生は、受験の準備を考慮して4年時の工場実習が免除されますが、何か後ろめたく感じましたので、私1人だけ1965年7月12日(月)から31日(土)の20日間、千葉県茂原市にある㈱日立製作所・茂原工場(現 ㈱日立ディスプレイデバイシズ)に実習に行きました。この工場には、東大、京大、中央大生とともに4人参加でした。私は大パワーセラミック送信管の電極最適配置の設計を、その当時では珍しかったテーブル型の計算機を駆使して行い、1ヶ月で工場にその研究論文を提出しました。ただ、ドイツ製の最新型送信管用の真空装置を実験中、うっかり破損させてしまい、茂原工場さんに平謝りに謝りました。岩柳課長さん(後に分社化の社長さん)や係長さんには大変ご迷惑をお掛けしました。申し訳けございませんでした。
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16. 音楽の先生の怒り
1953年(昭和28年)5月に、日本石油㈱に勤めていた父
(こちら )
の転勤で、兵庫県尼崎市から仙台市半小町に引っ越して来て、仙台市立八幡小学校5年7組に編入しました。たまたま、隣家の伊藤さんの旦那さんが仙台市教育委員会、奥様が市内の小学校の先生で、その長女の方(千恵子ちゃん)が東北大学教育学部附属小学校3年生でした。その家の人と懇意になり、「附属小学校で各学年ごとに編入試験がありますよ。」と私の両親に教えて頂いたらしいのです。たまたま、附属小学校も家から比較的に近くにありましたので、挑戦の積りということもあり、受験したわけです。6年編入は私を含めて5人の受験者がありましたが、私だけ合格し6年1組に編入しました。1955年3月に無事そこを卒業し、北七番丁にある附属中学校に入学したわけです。1年4組です。
次の週の音楽の時間は音楽室です。緊張のあまりシーンとして先生を待ちます。やがて先生が教室に入って何事もなかったかのように出席を取り、「さあ。教科書の〇〇ページの”夏は来ぬ”を歌いましょう。」と言ってピアノを弾き始めます。「卯の花ーの匂う垣根に、ホトトギス早も来鳴きて、・・・」と斉唱します。私の親友であった阿部浩佳君(後に丸紅㈱部長)ら歌の非常に上手な小学校6年の同級生数名がこのクラスにいて、また、私も音感がしっかりしていると自負していましたので、これらがうまく調和したのか、「皆よく歌えてるなあ。」と自分でも納得の斉唱でした。 歌い終わると、先生が間髪を入れず、「非常にいい! いいねえ。素晴らしい。初めて歌うのに、こんなに上手なのは初めてだ。」と感心頻りです。「よし。もう一回歌いましょう。」とピアノを弾き始めます。歌い終わると、「ウーン。いいねえ。素晴らしい。よし。もう一度歌いましょう。」と、この音楽の時間、繰り返して歌い、その度に先生は感心しています。先生のお顔はご満悦のようで、感動さえしているようです。お世辞ではないようです。 5月に、また父の転勤で北海道札幌郡手稲町に引っ越しましたので、その後の様子は分かりません。 2年後(1957年[昭和32年])の中学校3年の年、札幌でNHKラジオを何気なく聴いていると、「NHK全国音楽コンクール・中学校合唱の部、第3位、東北大学教育学部附属中学校。」(その2)というのです。あのときの和久井先生が頑張られて、ここまで指導されたのだなあ、と思いました。それに、そのときの私の同級生はは阿部浩佳君や中嶋昭子さん(旧姓 稲沢さん)をはじめ、歌の上手な人たちばかりでした。 なお、先生の息子さんの和久井康明君は附属小・中学校ともに、クラスは違いますが、私の同級生で、和久井君は後に、東大経済学部を卒業して、現在、㈱クラレの社長を経て㈱クラレの会長に納まっています。 return |
17. ゴータマ・シッダールタ
1957年(昭和32年)に日本石油小樽営業所が札幌支店に鞍替えし、小樽市内や札幌郡手稲町(現在の札幌市手稲区)にある社宅も、1957年12月に札幌市南25条西9丁目に新設された日本石油社員用の藻岩アパートに転居することになったのです。私の一家も手稲町から転居したため、私は手稲町立手稲中学校2年B組から札幌市立柏中学校2年8組に転校になりました。柏中学校は古い木造2階建ての校舎で、一学年10クラスもあり、一クラス57人の大所帯でした。 return |
18. 札幌市内でホワイトアウト(猛吹雪)
1960年1月の高校2年のある朝、自宅の日本石油㈱藻岩アパート (札幌市南24条西9丁目1118番地。2005年ごろに取り壊されました) から札幌南高校(南18条西6丁目)に、同級で同じアパートの 加藤綜和君[註7]と一緒に徒歩で登校していました。朝から北西風の風雪の中、向かい風に対抗するために、ヤッケに身を包んで前かがみに歩いて柏中学校近くの南21条の市電通りに差しかかる頃から激烈な吹雪となり、大量に降る雪と雪面から舞い上がる雪粉とで、まるでミルクの中に浸かったように、周りは真っ白で何も見えなくなりました。物凄い雪煙のため、自分の手足さえ何処にあるのかが分からないのですよ。方向感覚もなくなり完全なホワイトアウトです。
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19. ジェーン台風
午前9時頃から南東から南風がざわざわと吹き出して、やがて大粒の雨も降ってきました。「あっ。来始めたな。」 全ての雨戸を閉め直します。次第に風と雨が強くなり、雨は横殴りに。私は2階の階段を上った所にある踊り場の小さな窓から外を眺めています。ここは、風下側なので安心です。外はゴーゴー、ヒューヒューという風の音とザーザーという雨の音、内はギシギシという家のきしむ音が止みません。そのうち、南風の直撃を受け続けている2階の木製の雨戸が、風圧で、目で見ても室内側に弓なりに曲がっているのです。瞬間的にはドーンと大きな音を立てて、暴風が雨戸に激しくぶつかります。すると、震度3くらいの地震が来たように家全体が揺れ、柱という柱はギーギーときしみます。雨戸は5センチーほど内側に湾曲して耐えています。恐ろしい!! 父の顔は見る見る青くなり、「雨戸が吹き飛んだら屋根も吹き飛ぶ。大変だ。みんな手伝え。」ということで、箪笥をはじめあらゆる家具、さらに、畳まではがして、雨戸が外れないようにします。2階の小窓から外を見ると、猛烈な雨は下から降って来るような横殴りで、屋根すれすれに見える真っ黒い乱雲が猛スピードで南から北に流れています。木切れ、屋根瓦などがたくさん空中を飛んでいます。一歩も外には出られません。もし外に出ると、人間でも風に吹き飛ばされるし、暴風で舞っている瓦礫に当って大変なことになるでしょうから。武庫川の堤防を見ると、直径50センチ以上、高さ10メートル以上の黒松がスローモーションのように90度まで曲げられ、また元に戻るというような動きを、10秒位の周期で繰り返し、台風の威力ってすごいなあ、と妙な感動を覚えます。ついに停電、断水。電線が切れたのでしょう。 それまでも豪雨で暗かったのですが、12時頃にさらに急に夜のように真っ暗になり、風雨が猛烈になりました。風が家にぶつかるド、ド、ド、ドーンという爆弾のような音、グラグラ、ギーギーという地震のような揺れ。小窓から外を見ると、真っ暗な中あらゆる瓦礫が飛び交い、ゴーゴー、ヒューヒュー、ガラガラ、ドーン、ドーン、雨がドーッ、ドーッと地獄のようです。父母は真っ暗な部屋の中に座って、互いに、「一体、どうなるのだろう。」と話し合って怯えています。恐らく、台風の目のすぐ傍にいるに違いありません。後で聞いた話では、武庫川の向こう側(西側)の西宮市は午後、台風の目の中に入って、風がぴたりと止み、青空となったそうです。この地獄絵が1時間から1時間半続いたのですよ。14時からは猛烈な風雨がややが弱まり、少し明るさを戻しましたが、それでも、ものすごい風雨が16時ごろまで続きました。要するに、朝から晩まで吹きっぱなし、降りっぱなし、ということです。 風もかなり収まった17時頃、2階の小窓から見て、すぐ近くのどぶ川が逆流しているのに気付きました。「アレッ、川が逆さに流れているよ。」 そのとき、「高潮だーッ。高潮が来たぞーッ。高潮だーッ。」と繰り返し叫ぶ男の声が聞こえました。みると、どぶ川の水が道路に溢れ出し、見る見る一帯が水浸しに。この頃には曇り空ではありますが、風雨は収まり、時々思い出したように強めの風が吹く程度です。日暮れてきました。遂に、15センチの床下浸水となりました。海岸から6キロも離れているのに海水が押し寄せてきたのです。幸い、それ以上には水かさは増しません。やがて、浜の方からボートがやって来て、「海岸地帯はひどい状況だ。すべての家は2階まで浸水している。炊き出しをお願いしたい。」と近所に触れ回っています。 断水ですが、すぐ近くに井戸水の手押しポンプがありますので、近所の奥様たちはそれで水を確保し、また、ガスは止まりました? が、まだその時分には薪で炊く竈とお釜を使っていましたので、これでご飯を炊き、そしてオニギリを握って、ボートの人に渡したのです。幸い、私の家近くは夜半までに水が引きました。停電はしばらく続いたと思います。何しろ、吹きさらしの土地にある電柱という電柱は全て根こそぎ倒れたのですから。 このときの高潮はは大阪市内はじめ阪神地方に大きな爪あとを残し、完全に水が引くまで1ヶ月もかかりました。交通機関も復旧するのにかなり日数を要したようです。また、私の学校も浸水で通えない児童も多く、しばらくはまともな授業が出来なかったように思います。校庭から南を見ると、何日も海水に浸かったままの田んぼが見られました。
なお、父母の知人で海岸近くに住んでおられた高橋さんは、命からがら避難したそうで、その後、高橋電気商会を大阪市内に創設し、商売が繁盛している由です。
この高潮の教訓からか、阪神地方の海岸線は背の高い防潮堤が築かれ、あの美しかった松林と砂浜の浜甲子園海水浴場や芦屋海岸などは、記憶か写真にしか残らない遠い昔の風景となりました。
[余話2] 1950年代のこの本田社宅には、私が記憶している限りでは、上記の野田さんのほかに、糸山さん(宗行ちゃんが私の同級生。また、シェパードのパール[真珠の意]という名犬もいた。1951年に東京に転勤)、真杉さん(さっちゃんというと年下の女の子がいた。1950年に名古屋に転勤)、お隣の安達さん(親友であった貞雄ちゃんが1年上のお兄さん)、平田さん、菅沼さん(正明ちゃんというと年下の男の子がいた。1952年に小樽に転勤)、小山さん(足の速い1年下の男の子がいた。1950年に鳥取に転勤)、馬場さん(奥様は若林さんで同級の1人っ子の男の子に連れられて、夏休みの1ヶ月間だけ、甲子園のピアノの先生にピアノを習ったことがあります)、長尾さん、江本さん(利夫ちゃんが私の同級生で、あの有名な灘高校出身)、寝屋さん、会社の寮の叔母さんの山本さん(一緒に遊んでくださった山本お兄さんがいて、後に所属して活躍した関西大学グリークラブ [ コーラス(合唱)グループのこと ] が、何らかのグランプリを獲得したとか ) が住まわれていました。 [補記] 関東大震災後、東京大学に地震研究所が設立されたように、このジェーン台風の被害が甚大であったことから京都大学に防災研究所が設立されています。なお、2011年3月11日の東日本大震災では、1年後の2012年4月に東北大学に防災科学国際研究所が開設されています。 [以上、青葉工業会報(東北大学工学部同窓会報)No.56 (2012年12月)の1ページ掲載の青葉工業会会長・工学研究科長の金井 浩教授による巻頭言を参考にしました。] return |
20. 平成10年台風第7号
1990年代の10年間に、勢力が歴代3位の平成5年台風第13号をはじめ、幾つかの強力な台風が次々と襲ってきた特異な10年間でした。地球温暖化の影響が取り沙汰されていました。
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奈良県宇陀郡室生村西谷(現 宇多市室生区西谷) 杉中成夫氏が撮影 |
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21. 首都高のランプでガス欠
1980年頃(30歳代後半)の天気のよいある日曜日の午前、何かの用事で中央自動車道から首都高速4号新宿線に入り茨城県勝田市(現 ひたちなか市)への帰途についていました。当時は未だ、常磐道も外環道もなく、首都高6号線の東端は東向島までしか開通していません。その先は国道6号線(水戸街道)となります。乗っている車は30万円で買って間もない中古のグランドファミリア(マツダ車 マニュアル3速の排気量1190cc)です。
[第2段] 1985年頃、同僚のO先生の義父の方がお亡くなりになり、その方がお使いになっていた車を使う人がいなくなったため、私が無償で戴くことになりました。日産の4速マニュアル車ラングレイ(排気量1500cc)です。その年の正月休みに、その車で、父母の住んでいる三重県志摩地方まで帰省しました。茨城から国道6号線、首都高、東名高速道路を通って、伊勢湾フェリーに乗るために、東名・豊川インターチェンジで一般道に降り、豊橋市を抜け、渥美半島の田原町(現 田原市)の市街地を過ぎたあたりでエンジンルームがオーバーヒートしてしまい、冷やしては走り、また冷やしては走りをする羽目に。ついに、ダウン。そこが丁度、河三モーターズという修理工場の前だったので急遽見てもらいますと、ラジエーターに小さな穴が開いて冷却水が無くなったためにオーバーヒートしたとのことで修理をお願いしました。明日から正月明けまでお休みということで、仕方なく、私はバスで豊橋に戻り、東海道線で名古屋に行き、近鉄、バスを乗り継いで大回りして帰省しました。 return |
22. 私の目は青目 ?
そういえば、初めての海外旅行でロサンジェルス空港に降り立ったとき、奇妙にも非常に懐かしい気分になったのを覚えています。アメリカの白人は目が大きく柔らかな眼差しで、女性はブスが全く居なくてどれもこれも美人であり、男性もすべて美男子だなあ、と。また、黒人女性も魅力的で美人ぞろい、と思いました。日本に戻ったとき、怒られるかもしれませんが、日本と日本人にはガッカリした記憶があります。 テレビで欧米や中近東・トルコや中央アジアを見るときも、何か懐かしい感情が出てきます。そこに住む住民の感情が日本人のそれ以上に分かる気がします。遠い祖先の幻影を感じるように。 ちなみに、インドを含めてインドから西の地域や、中央アジアから西の人々は、歴史的な混血もありますが基本的に白色人種(コーカソイド)になります。インド人もよく見ると青目、金髪も混じっているようで、パキスタンに入ると、ハリウッド女優並みの金髪青目の美人もかなりいるようです。 くだらない話ですみません。 return |
23. 前触れの夢 ?
茨城高専の先生からのお便りが届く日の早朝に、偶然でしょうが、その先生が夢に現れていた、ということが 2 つ連続して起きました。以下に、日記から書き出して見ます。(もし差し支えありますれば、ご連絡下さいませ。削除いたします。)
(1) 2011年11月5日(土)曇、弱い南風でやや暖かく、久しぶりに半そで return |
24. 父の宝くじが当選
なお、当時は未だジャンボ宝くじはありませんで、1等賞金は2000万円程度でした。 当時の300万円は2012年現在の価値に換算すると700万円位でしょうかね。当時の上級甲種合格の国家公務員(超エリート公務員)の初任給が7万円程度の時代ですから。(2012年は16万円台)。 よくまあ宝くじが当たったものです。賞金受け取りの手続きは地元の銀行(それとも、郵便局 ? )でとったものですから、国鉄(今のJR)東海道本線・高槻駅のホームから真正面に見えるそのビルにデカデカと「当市からマイカー賞が当選しました」と書かれた横断幕が掲げられているではないですか。それを見て母・美枝は「買ったのはここではなくて大阪・梅田なのにねえ。」と言っています。この梅田の宝くじ売り場は当選が多いので有名な所ではあります。 当時はマイカーブームが始まった時代で、正規の1等、2等・・・のほかに、このような「マイカー賞」なるものがあったのです。ところが当時、父はもちろん、私も含めて私たちの家族には運転できる者がいません。それで、父は高級乗用車の代わりに、現金を支給されました。父は、「このときは助かったよ。住宅ローンを支払うのに大変だったからね。」と喜んでいました。 return |
25. C型肝炎ウィルスに感染???
肝炎ウィルスにはA型、B型、C型があり、A型は経口から、B型とC型は血液接触感染で体内に入り肝臓を犯します。A型は劇症になりやすい反面、適切な処置で完治されますが、B型とC型は劇症になる場合と慢性化する場合に分かれ、劇症になった場合は短期間で生命を危くしますが、多くは慢性化し、適切な処置で病気の進行を抑えることが現代では可能となっています。しかし、慢性の場合で適切な処置を怠ると最終的には肝硬変から肝癌に至る危険性が大となります。特にC型の場合、一度ウィルスが体内に入るとウィルスを完全に駆遂(駆除)することが極めて困難とされています。この困難さはエイズウィルスと同様です。日本人はC型肝炎ウィルスの感染者数が非常に多いといわれ、1964年当時のアメリカの著名な駐日大使であったライシャワー氏が暴漢に太ももを刺されて輸血を受けたことが原因で慢性のC型肝炎になり、それが悪化して1990年に亡くなられたことは記憶にそう古くはありません。
2007年8月10日(金)快晴、猛暑 |
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往年、献血に協力しまして、10回目に右図のような記念品を貰っています。ガラス製の小さなお猪口でしょうか。献血をして血を抜かれた直後の爽快感は絵も言われぬものです。国内では輸血用の血液がいつも不足しているようなので、皆様も協力されるとよいかと思います。 return |
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不思議なこと(下) |
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