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ノンスペース
型計量機は、ガソリンスタンド(給油所)の天井から給油口が下りてくるタイプ、即ち、吊り下げ式の給油機で、知らない方はいないと思います。
この発明は㈱東京龍野製作所(現:㈱タツノ・メカトロニクス)さんによってなされ、この発明に対して(社)石油学会から1966年度第3回の技術進歩賞が授けられています。
しかし、この当初の発案者は、当時、日本石油㈱に勤務していた山本弘(故人)であることは誰もご存知ありません。
1. ノンスペース型計量機の発明秘話
ある給油所の設計段階で、街中の敷地が十分でないために、計量機設置スペースが不足するという事態になり、このことについて取引先の或る計量機メーカーから山本弘に相談が持ち込まれた訳です。それで、勤務時間後の行き付けの場所で、父はそのメーカーと懇親方々酒宴の席で、その懸案事項を話し合ったわけです。 アイディアの豊富な山本弘が、「地上の設置が無理ならば、給油口が天井から下りてくるような計量機はどうだろう。」と話したのが切っ掛けとなり、計量器メーカー側の開発を促し、結果として、TATSUNO ㈱ タツノさんの特許となった由です。そして、この発明に対して(社)石油学会から1966年度第3回の技術進歩賞が授けられています。
その後、山本弘は、広島支店に転勤し、さらに、大阪支店工務課勤務を最後に55歳で日本石油㈱を定年退職しました。続いて、取引業者の1つであった石油関連工事の請負い会社である新潟工事㈱ [下註] に勤務した後、69歳で引退をした父は私が運転するドライブで、通り過ぎるガソリンスタンドを見る度に、「あの給油機(計量機)は、本当は、俺が考え出したんだよ。特許は取引業者だけどね。」と、長男の山本信雄に思い出したように語っていました。長男が、「お父さんの名前は入っていないの?」と聞くと、「言い出したのは俺だけど、開発したのはアチラさんの会社だから、入っていないよ。」ということです。その言い方は、残念そうではなく、ごく当たり前、といった感じでした。
山本弘は札幌・東京間の出張も多く、日本航空のオーロラ便、(同左 )も利用していました。そのオーロラ便は、石油危機の1974年になくなり、第1期高度経済成長期が終った感があります。
以上は、山本弘と交流のあり、当時お若かった(元)新潟工事㈱社員の真木雅昭氏にお教えいただきました。有難うございます。 2. 給油所での物品販売の創始者
1960年代の給油所(ガソリンスタンド)では、消防法等の規制により、石油類以外の物品の販売は禁止されていました。山本信雄が学生の頃、父・山本弘の紹介で、夏休みに札幌市内の或る給油所でアルバイトをしていましたが、給油所への石油類の輸送は現在のタンクローリーではなく、石油類を入れたドラム缶をトラックに載せて運んでいました。私のアルバイトでも、ドラム缶をトラックから降ろして、地下の油槽に入れ変える作業をして油まみれになり、工場の一角のようで、とても一般商品を扱う雰囲気ではありませんでした。
3. コウモリマーク
日本石油㈱は1888年新潟県で設立されて以来1983年まで社章としてコウモリマークを使用していました。山本弘氏の語るところによると、創立当時の新潟県内(当時は新潟県内でそれ相応の量の石油を産出していました)の本社で会議を開いていたときに、開いていた窓からコウモリが飛び込んできたそうで、「これは何かの縁だ」、または、「これは縁起がいい」という事で、このコウモリを社章と決めたそうです。
4. 放送局で山本弘が吼えた
1960年頃、または、それより一寸前に、40歳代の山本弘がNHK札幌放送局であったか、HBCラジオ(北海道放送)であったかを忘れましたが、「石油の未来」について放談する機会がありました。当時は、石炭産業が全盛期の頃です。 5. 日中戦争(日華事変)に従軍したときの山本弘の話
1937年(昭和12年)に日華事変が始まって直ぐに、日本石油㈱横浜製油所に入社ましたが、その後間もない19歳のときに、山本弘に召集令状(通称、赤紙という)が下り、第2師団・高田連隊で2ヶ月の訓練の後、倉林部隊の2等兵として広島市宇品港から中華民国(支那)の上海に向けて参戦しました。上海上陸のときは、上海市街戦の真っ只中で、上陸直前、山本弘のすぐ隣にいた仲間の兵士は流れ弾に当って即死したそうです。上海上陸でさえ、死に物狂いだったそうです。上海が平定したあとは、長江(揚子江)沿いを内陸に向かって進み、数年後に、南京陥落、そして、伍長に昇格した武漢で内地(日本)への帰還命令が出ます。おびただしい人数の犠牲者が出るなか、山本弘は死の危険もあり、また、マラリヤにもかかりましたが、無傷で帰還できました。マラリヤは高齢までその影響がありました。
(1) 戦争は悲惨、少年兵達のことなど
戦闘では100メートル近くの至近距離となりますが、相手の姿は見えません。相手から、銃弾が、ヒュン、ヒュンと耳をかすめ、目の前の土にも弾けて土煙が立つなか、見えない相手に必死に銃弾を向けますが、ほとんど目暗撃ちだそうです。時には、隣の仲間が撃たれる。恐怖でここを立ち去りたい気持ちになりますが、「転戦だ!」という上官の命令がなければ、その場から退却できません。やっと「転戦だ!」と号令が下ると、ホッとして直ちに退却するのだそうです。
行軍の道筋は、前もって軍用機で航空写真(勿論、モノクロ)を撮ってあり、それを基にした地図は用意されてはいる由。しかし、細部までは分らないので、現地の日本贔屓の中国人を案内人として雇うのだそうです。 部隊は次第に内陸に進むので、線的な経路でしか占領できません。そこから両脇は占領できないでいます。そこで、部隊長がある兵士に、「何処そこへ行って探って来い。」と命令します。命令された兵士は、中国人に変装をしてその任務遂行に部隊から離れていきますが、予定の日時を過ぎても帰って来ないときは、「もう駄目だな。」と、相手の手に懸かって犠牲になった、と判断して諦めるそうです。 (2) 九死に一生
ある戦闘で軍友が相手の銃弾に倒れ、近くにいた山本弘が倒れた軍友を助け起こして、肩に担いで歩き始めて十数歩、助け起こしたその地点に大砲の弾が炸裂したそうです。多分狙われたのでしょう。あと、数秒遅ければ、2人とも木っ端微塵に散っていたといいます。山本弘は長男の信雄に、時々言いました。「もし、俺が数秒遅れたなら、お前はこの世にいなかっただろう。」と。 (4) 南京大虐殺について
2007年頃、NHK総合テレビの「その時歴史は動いた」の番組で、南京大虐殺について史実やご存命の将校の自叙によって取り上げられました。これによると、当時の首都であった南京を陥落させて、城内(旧市街は城壁に囲まれていた)に日本軍が入城したときに日本軍が先ず見た光景は、大量の軍服が脱ぎ捨てられている、ことでした。それで、日本軍の解釈では、「中国兵は皆民間人に変装したのだ。民間人といえども兵士に違いない。皆、引っ捕らえい。」ということで、残っていた南京市民は皆捕らえて、長江(揚子江)の岸壁に連れて行った由。すると、捕らえられた中国人は次々に川に自らの身を投げ、日本軍は機関銃でそれを乱射したのだそうだ。長江は真っ赤に染まった由。 山本信雄はこう考えます。大量の軍服が脱ぎ捨てられている、ということは、白旗を揚げたと同等と解釈できます。明確に白旗を揚げなかった理由は、相手の捕虜には日本軍は容赦なかったからと思います。数年前のイラク戦争等を見て分りますように、戦争とは疑心暗鬼になって、何がどうなるかが分らなくなることです。 そのころ、山本弘は何をしていたかといいますと、南京郊外で歩哨(敵が攻めてこないかと見張る役)をしていた由。それで、長男が山本弘に「南京大虐殺のことは知っていたの?」と聞くと、山本弘は「南京市内では何かあったらしい。何かは聞かされていないが。」と話すのみで、何があったのかは本当に知らないようでした。 (5) 戦利品で作った「武漢入城紀念」の銀のフォーク
武漢に入城した記念として、「武漢入城紀念」ロゴ入りの大きな銀のフォークが配られました。それが、山本弘の形見の一つとなりました。
6. 水戸黄門、(同左)のファン
山本弘は大の水戸黄門ファンで、古くは長編講談「水戸黄門漫遊記」を読み、後年、TBS系のテレビドラマ「水戸黄門」(同左)を毎回見ていました。 |
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7. 日本石油㈱大阪営業所の本田社宅(尼崎市)
本田社宅は武庫川の東側に位置する兵庫県尼崎市西字本田31番地~34番地に戦前からあった社宅ですが、1990年には取り壊されて、現在はアパートと駐車場になっています。 |
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右の写真は、1965年頃の広島支店勤務時代の借り上げ社宅の茶の間で、広島の猛暑の凪の夕方に妻・美枝とくつろいでいる写真です。弘は新聞を見、美枝さんは編み物をしています。弘は普段多忙なので、2人揃ってくつろぐことは案外珍しいのです。 9. 晩年の弘氏 晩年のひとコマが右下の写真です。弘氏ご夫妻ともに78歳です。 [山本弘の略歴]
1928年 保倉村立小泉小学校卒業 1931年 1911年創立の中頚城郡立直江津農商学校(現在の、県立直江津高校)商科卒業。(本当は、5年制の高田中学校に行きたかったようですが、農家の三男ということで、父親の許可が得られなかった由。父親は、「お前は商人になれ。」の一言で行く先が決まった由。) 1931年~1932年 横浜市内の或る卸問屋に丁稚奉公(ここでは、朝8時から夜10時までの店の仕事、主人の御飯の支度、炊事、洗濯、家事、子守などあらゆる仕事をする。寝る時間は夜0時から翌朝6時のたった6時間。但し、住み込みで、食費等はタダ。休日は月に1日だけ。給料に相当するお小遣いは、月に50銭銀貨1枚。) 1932年~1936年 上記卸問屋が昭和の大不況(世界的な大恐慌)で倒産。この時分は、大学卒のエリートでも、日雇いの仕事しかなく、山本弘も、日雇いの仕事を転々と。そのときの同業者にも、多くの大卒の人がいたという。 また、隅田川の浚渫工事(泥すくいのこと)をする。このときに、浚渫機械を操作ミスで壊して、親方にえらく怒られた由。 それから、下町のマッチ工場に。自転車を使ってマッチの配達を、遠く、横須賀や埼玉県の川越まで砂利道を行ったそうです。(当時、舗装はありません)。また、東京市内でも当時、信号機はなく、四つ角は交通巡査による手信号でしたが、山本弘は田舎者ですから、この手信号の意味を知らずに通過してしまい、巡査から「コラーッ。その男止マレーッ。」と怒鳴られて、巡査は交通整理を止めて、山本弘は延々30分に渡って怒鳴られ続け、手信号の意味を叩き込まれたそうです。 兎に角、時代柄、どの仕事も不安定で、転々と職を変えざるを得なかったそうで、相当に苦労されたようです。職が見つからない時や農繁期には新潟の実家に戻って農作業の手伝いとのこと。 ある日の夕方、山本弘が配達で中流のサラリーマン(当時のサラリーマンはエリートであった)の家庭を訪問した時、奥の間から、すき焼き(当時、一般市民は肉を食べることは、高価なために困難であった)の匂いと家族団らんの声が聞こえ、山本弘は考えました。「このままでは、俺は到底この家庭のように暮らすことは一生できない。よし。一流会社に何とかして就職しよう。」と決意したのです。 電信柱に貼ってあった広告を頼りに、先ず、日本鋼管㈱の工員募集に応募して面接等の試験を受けましたが、競争倍率は10倍以上で不合格。次に、日本石油㈱の工員募集に募集して試験を受けた所、これも10倍以上の難関でしたが、それをかいくぐり合格したのです。日本石油の発祥が新潟県柏崎なので、同郷のよしみも効いたのかもしれません。 1936年 日本石油㈱横浜製油所に工員として入社。(当時、社員は月給制ですが、工員は日給制です。辞令にはこう書かれています。「辞令。山本弘。鉄工手を命ず。日給34銭。日本石油㈱」) 1937年~1941年 徴兵により、日中戦争(支那事変)に従軍。この間、日本石油㈱の給与は、実家に払い込まれたという。よって、山本弘は「そのときは親孝行だったよ。」と話していた。 1941年 帰還後、日本石油㈱関西製油所に転勤 1941年6月26日 親戚筋の話し合いにより、新潟県中頚城郡大瀁村[現在の、上越市頚城区]大字市村新田出身の福田美枝と結婚。兵庫県武庫郡(後、尼崎市)西字南開711の日本石油㈱工員住宅に居住。 1942年8月24日 長男・信雄(本ホームページの管理者)を儲ける。 1945年 関西製油所が大空襲により壊滅。関西製油所を閉鎖。山本弘は空襲後の写真を有している。 1945年 太平洋戦争敗戦終結 1945年 日本石油㈱大阪営業所に転勤。兵庫県尼崎市西字本田31の日本石油㈱社員住宅に転居。 1946年7月29日 長女を儲ける。 1953年 仙台営業所に転勤。仙台市半小町1の4の日石社宅(新築)に転居。 1956年 小樽営業所に転勤。北海道札幌郡手稲町字手稲144の日石社宅に転居。 1957年 札幌支店に転勤。札幌市南24条西9丁目1118の日石藻岩アパート(新築)に転居。 1963年 広島支店に転勤。広島市牛田町早稲田区の日石借り社宅に転居。 1966年 大阪支店に転勤。兵庫県尼崎市西字本田34の日石社宅に転居。 1971年 日本石油㈱を定年退職。引き続き、新潟工事㈱大阪出張所所長に再就職。大阪府高槻市東五百住町の自宅(新築)に転居。 1986年 新潟工事㈱を勇退 1986年3月 隠居先の三重県志摩郡(現在の、志摩市)阿児町神明1415-28の自宅(新築)に転居。 1997年10月 老衰で自宅の廊下で倒れたまま起き上がれなくなり、三重県立志摩病院に入院。 1997年12月17日(水)16時43分 志摩病院にて肺炎で静かに眠るように死去。81歳11ヵ月、ほゞ、82歳。生前の高い意志により、三重大学医学部に医学生の実習のお役に立てるため、献体されました。 |
余談
山本弘は、真面目で律義な人で、家庭内でも、子供の行動や言動、生活一般にかなり厳しいものがありました。ただ、仕事の関係で家庭にいる時間は限られていましたが。
山本弘氏の寸描
山本弘氏は外に優しく内には厳しい、常識的で真面目な人でした。日石勤務中は多忙の毎日で、全国を駆け回っていました。仕事上をはじめ個人的にも、お付き合いの方々が大変多く、年賀状や暑中お見舞いの葉書のあて先を長男の信雄が中学校のときから代筆していましたが、数日を費やしたものです。取引先との時間外の交際も多く、その場所はバー、キャバレー、クラブなど多彩で、東京、大阪の有名店にも上客として出入りしていたようです。経済成長が華やかし頃、テレビでも銀座などの高級クラブが紹介されたときも、一緒にテレビを見ていた家族にも「あのママさんはどうしているかな」と話題に出していました。ママさんから年賀電報も配達されました。
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父の訃報に対する諸兄からの手紙
1.玖島秀雄 殿(広島県賀茂郡西條町上三永、その後、広島市に移住。ご存命ならば百歳をお超えになる)より
1B.玖島秀雄 殿 への返信
2.新庄 信 殿(新潟工事(株)取締役社長)より
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3.真木 雅昭 殿(新潟工事(株)鹿島事業所)より
4.大庭 幸雄 殿より
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5.岡村 辰雄 殿より
6.木村 登 殿(千葉市緑区)より
7.木村 佳子 殿 (木村 登 殿の奥様)より
8.湯浅 千恵子 殿(大阪府高槻市)より
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9.佃 勉 先生(国立茨城高専名誉教授、神奈川県茅ケ崎市)より
10.大月 雪枝 殿(奈良市)より
11.松本 アイ 殿(仙台市泉区)より
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