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頸城
平野の
保倉川
東岸に位置する福田家は、江戸時代まで大庄屋であり、多くの歴史的価値のある文書があったといわれますが、明治時代になって、本家の家屋や菩提寺が火災に遭い、また、さらに、その後、雪解け水等によって蔵の内部が水浸しになりました。
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1. 頚城平野干拓のこと
上越市 の東側一帯に広がって米山に至る 頸城平野(高田平野) は、新潟県、延ては全国有数の穀倉地帯となっています。戦国時代では、湿地帯と荒地が広がる地域であったと想像されます。 伝承では、上越市の南方の脇野田という地名に居住していた福田氏が 上杉謙信 の命を受け、頸城平野の干拓事業を統率者として行い、居住も今の上越市 頸城 区市村 (前:中頸城郡 頸城村 大字市村新田、旧:中頸城郡 大瀁村 大字市村新田) という保倉川の河岸段丘に大庄屋として移転したようです。 福田家の敷地は広大で、第一の分家を上越市頸城区大字百間町の同じ敷地内に設けましたが、本家と分家の距離は2kmもあり、この区間全てが本家の敷地内といいます。本家と分家を結ぶこの道路も、本来、福田家専用の道路でしたが、近隣のお百姓さんたち(小作農)も自由に利用できるように計らったといいます。それで、何時しか、この道路を「旦那のお納」と呼ばれて、親しまれていたといいます。今、この道路は直江津から頸城平野の奥に向かう重要な市道となっています。([註]今は、頸城鉄道の線路跡に、田圃の真ん中を直線で結ぶバイパスが出来ています) 江戸時代は庄屋として繁栄を極めたようで、お輿入れのときは、大名が使うような駕籠を用いたといいます。 頚城平野における広大な農地を灌漑するための水源から各田圃への水の供給について、その治水権(ただし、どの程度の範囲かは不明)を福田家は昭和20年代(1940年代後半)の農地改革のときまで保持していました。 なお、福田家は、1960年代の日本名家事典?のような事典に、僅か数行ですが、載っていました。今は確かめていません。 2. 寺子屋 江戸時代末期には、寺子屋を敷地内に設けて、近隣の小作農家の子供達を集めて教育を施したそうです。明治時代になって学校が出来ると同時に寺子屋も終止符を打ちましたが、寺子屋で教育を受けた方たちが感謝の気持ちで石造りの記念碑を敷地内に建ててくださったとのこと。その後、屋敷内が大改装されているため、その碑がどうなっているか分かりません。 3. 明治維新による変遷 明治時代になって、新しい制度と考え方により、小作人さんも未だ多少はいたようですが、福田家も単なる一農家として自立することになりました。広大な土地はただ同然で小作農家に分譲され、福田家も自立するに足るだけの農地しか残さなかったようです。当時の一般の農家と同様、福田家も経済的に豊かではなくなりました。 4. 瞽女さんのこと
昔は、医療や公衆衛生が整わず、国民生活が貧しいために、トラホーマを初めとする目の病気が珍しくなく、失明する人も多くいました。
5. 電灯が点る 1925年頃、山本の母・美枝(旧姓・福田美枝)が小学生の頃、それまでランプ生活だったのが、ある日、電灯会社が工事して、電灯会社の人が電灯のスイッチを入れると、周りで見上げていた皆は思わず「ワアッ。」と声を上げたとか。 6. リヤカーで行商
当時の農家は、自分の家で採れたよいお米は出荷して、自分の家では屑米を食べていました。小学生の母は朝食の前に田圃仕事を手伝い、学校にはお弁当を持っていかないで昼食抜きの習慣のようでした。
7. 元NHK美人アナウンサーの 下重暁子 さんのお母様のこと
絶版になりましたが、下重暁子さんの著作である「思へばこの世は仮の宿」の初めのほうに、お母様の最初のご結婚のことが書かれています。お母様のご出身は、福田家から南方に位置する板倉町の庄屋さんと著書に書かれていて、下重暁子さんのお母様の最初の結婚相手は、何と、上述の百間町にある福田家の第一分家の長男なのです。著書にも書かれているとおり、結婚式が毎日延々と10日も続いたそうです。
8. 戦後の農地改革で頚城平野の治水権を新潟県庁に譲渡する 上記 1 項で述べましたように、戦国時代の干拓事業以来、福田家が保持していた頚城平野の治水権を、1945年の終戦直後に行われた農地改革によって、新潟県庁に譲渡しました。この見返りとして福田家は県から巨大な南部鉄瓶を授かったそうです。今、この鉄瓶はどうなっているかは山本信雄は知りません。 9. 頸城鉄道 (同左1、 同左2、 同左3、 同左4、 同左5、 同左6、 同左7、 同左8) (先頭と同左2はインターネット・アーカイブのバックアップ[backup at the Internet Archive]より抽出)
信越本線・直江津駅の東隣の黒井駅を降りて南側に隣接して、頸城鉄道の始発駅・ 新黒井駅
(同左)
がありました。軌間762mmゲージの玩具のような線路が広大な田圃を南東方向に縦断する軽便鉄道で、 百間町駅
(同左)
を経て終点の 浦川原駅
(同左)
まで、頚城平野で唯一の交通機関でした。鉄道趣味の方々にはかなり有名な鉄道ですが同じ会社(現在、頚城自動車株式会社)の経営する頚城バスに受け継がれ、1971年に惜しまれながらも全線使命を終えました。
10. 近所の人がタコ部屋から逃げ帰った
1930年の世界大恐慌の影響で、日本社会もどん底の生活を強いられました。母・美枝(旧姓・福田美枝)が若い頃に聞いた近所の人の話をしてくれました。次のようです。
11. 現在の福田家
山本信雄の母の姉・福田シズイさん(故人)[下註]が戦前に近所からお婿さん・福田郡治さん(故人)を貰い、ご長男の方・福田静治さん(故人)が新潟県庁に奉職の後、 ㈱ 頸城建工 を創設され、静治さんのご長男・福田孝則氏が会社を継がれています。㈱ 頸城建工は頚城地方では中堅の建設企業として地元産業に貢献しています。
[参考] 伝承を語った山本美枝さんの略歴
1928年 大瀁村立 南川小学校 卒業 1930年 大瀁高等小学校を主席で卒業。このときの優等賞として立派な「くけ台と和裁用の仕立て台」を貰い、一生涯使い続けた。(なお、福田美枝は、どうしても女学校に行きたがっていましたが、実家の経済的事情から泣く泣く断念しました。このことを生涯悔やんでしました。) 1930年~1941年 (その1)東京市京橋区と東京市麹町区のそれぞれの叔母さんが経営する旅館業にご奉公し、農繁期には、新潟の実家の農業を手伝う。 (その2)山名男爵家にご奉公。(山名家は、 応仁の乱 の 山名宗全 の直系。) (その3)投資家として財を成した関原家にご奉仕し、「お竹さん」と呼ばれて大切にされる。なお、関原さんのお嬢さん「 関原和子様 (第18回[1949年]日本音楽コンクール・ピアノ部門入選)」は ピアニスト として演奏活動をなされてこられた。ご子息様は、元・日本航空ニューヨーク支店長。 1941年6月26日 新潟県中頚城郡保倉村[現在の、上越市]駒林出身の山本弘と結婚。山本弘が日本石油㈱関西製油所に勤務する関係で、兵庫県武庫郡大庄村(現在の尼崎市)西字南開711の日本石油㈱工員住宅に居住。
1945年 日本石油㈱関西製油所が空襲に遭い、壊滅、閉鎖。8月15日 太平洋戦争終戦(敗戦) 1945年 夫が日本石油㈱大阪営業所に転勤になり、兵庫県武庫郡大庄村(現在の尼崎市)西字本田31の日本石油㈱本田社宅に引っ越す。 1946年7月29日 長女(和子)出産 1953年 夫が仙台営業所に転勤になり、仙台市半子町1の4の日石社宅に引っ越す。 1955年 夫が小樽営業所に転勤になり、北海道札幌郡手稲町(現在の札幌市手稲区)字手稲144の日石社宅に引っ越す。当地は未だ井戸水生活。 1957年 小樽営業所が札幌支店として統括され、札幌市南25条西9丁目1118 日石藻岩アパート(新築)に引っ越す。 1963年 夫が広島支店に転勤になり、広島市牛田町早稲田区の日石借り社宅に引っ越す。 1968年 夫が大阪支店に転勤になり、兵庫県尼崎市西字本田34の日石本田社宅に引っ越す。 1971年 夫が日本石油㈱を定年退職し、大阪府高槻市東五百住町の自宅(新築)に引っ越す。夫は新潟工事㈱大阪出張所長となる。 1986年 夫が新潟工事㈱を退職し、老後の隠居地である三重県志摩郡[現在の、志摩市]阿児町神明の自宅(新築)に居住。 1997年12月17日16時43分 夫が肺炎により眠るように死去。 2002年12月 山本美枝は脳梗塞で倒れる。三重県立志摩病院に入院。重度5。 2003年4月 南勢町立病院に転院。 2003年8月 豊和病院 に転院。以降、ここで長期療養。 2008年8月から2009年3月 県立志摩病院で肺炎、腸閉塞、敗血症の治療。完治して、豊和病院に戻る。 2011年1月30日10時23分 老衰のため死去。95歳。浄土真宗大谷派 法名釋尼妙美。安らかな寝顔で、寝ている間の自然死と思われます。長い間ご苦労様です。お疲れ様でした。どうも有り難うございました。ご冥福をお祈りい申し上げます。家族葬の後、生前の高い意志により、三重大学医学部に医学生の実習のお役に立てるため、献体されました。 [謝辞] 豊和病院の 磯島明徳先生 (三重県立医科大学[現 三重大学医学部]のご出身で伊勢市の山田赤十字病院を長年お勤めなさっていました)には、山本美枝の診療と看護指導および介護指導等、ご親切、ご丁寧にして戴くなど、いつも大変お世話になっています。ここに、感謝し、御礼申し上げます。 また、三重県立志摩病院の内科に2008年当時居られた 伊藤宏雄先生 にも美枝の診療に大変お世話になりました。御礼申し上げます。 さらに、三重県立志摩病院の外科の 根本明喜先生 (三重大学医学部のご出身で、私たちスタッフと同じ茨城県ご出身でもあり、高校は龍ヶ崎高校とのことです)には2008年の美枝の十二指腸の手術に大変お世話になりました。御礼申し上げます。 |
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新潟県上越地方、長野県、山梨県、静岡県は昔から比較的標準語に近い言葉を使っています。ただ、新潟県では、例えば、「~に行ったすけ、~に会うことができた。(~に行ったので)、または、(~に行ったけれども)の意」、とか、「おまんた、どこへ行く。(お前達)の意」のように特有の表現があります。 美枝さんの寸描
好きな音楽は、ウィンナーワルツ等のワルツ、スコットランド民謡、行進曲、昔の学校唱歌、(浜千鳥、滝廉太郎作曲の花、荒城の月、等)、童謡(鉄道唱歌、みかんの花咲く丘、月の砂漠、歌を忘れたカナリヤ、等)、ドボルザーク作曲の「新世界より」等の有名な交響曲、1940年代の歌謡曲。 甘いものが好きで、あんこで作られた食物は特に好みます。一般に和食一辺倒で、洋食、洋菓子、中華料理は一切受け付けません。勿論、牛乳、バター、チーズ、肉類は全く食べません。これは、田舎育ちの粗食に慣れたためと思われます。そのため、骨粗しょう症で2回大腿骨を骨折し、また、低血圧のために、不幸にして脳梗塞に見舞われたものと考えられます。現在、右半身不随で、声も出ず、胃漏を通しての流動食で栄養を摂っている、という可哀想な状態です。[註]脳梗塞は低血圧の人、脳出血やクモ膜下出血は高血圧の人になりやすい由。それで、美枝さんが、牛乳を飲み、多少の洋食を食べていれば、と悔やまれます。 料理、裁縫、家事一般、農作業はとても上手で、料理は、自分の嫌いなものでも、家族のために、また、独身時代には奉公先のために上手に作りました。また、旦那さん(山本弘)とともに家庭菜園を’せっせ’としていました。”せっせと”は新潟弁の”一心不乱に”の意で”節々”、それとも”切々”、または”摂々”が語源か??) 趣味は、若いときに、編み物教室や人形教室等を習っていた以外は特にありません。 美枝さんがよく口ずさんだ数え歌
美枝さんは童謡や学校で習う唱歌や滝廉太郎などの歌曲を時々口ずさんでいましたが、次の数え歌をよく口ずさんでいました。これが印象に残っています。
美枝さんの死
美枝さんは上記のように三重県志摩市の豊和病院に入院していましたが、2011年1月30日(日)の午前10時23分にいつの間にか息を引き取っていたそうです。95歳。その少し前に介護士さんがオムツを取り替えたときはいつものように元気だったと言うことです。それで、私(長男)は茨城県ひたちなか市を発って、東名阪自動車道の御在所サービスエリヤで車中泊をしました。このとき1月31日朝に見た夢を次の日記で紹介します。普段は家族の夢を見ることはめったにありません。ちなみに、父(山本弘)は1997年12月に82歳で肺炎で永眠しています。30日にお通夜、翌2月1日に家族葬です。
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