仁藤正俊氏は、太平洋戦争終戦後に民間人として始めて
昭和天皇と将棋を指された、と氏ご自身が言っておられたそうです。
また、氏は、「世界は一つ、東京オリンピック」の標語を毎日新聞からの公募によって採用して、
1964年の東京オリンピックを盛り上げた功労者でもあります。
1. 昭和天皇と太平洋戦争の戦後最初に民間人として将棋を指されました
毎日新聞社の30歳代の新聞記者であった
仁藤正俊氏【インターネット・アーカイブ版〔backup at the Internet Archive〕より】
、
(同左【インターネット・アーカイブ版〔backup at the Internet Archive〕より】)が、
記者クラブか何かの席で
昭和天皇の取材活動をしていたときに、たまたま、天皇陛下が退屈そうに待機されているのをご覧になり、
積極的な氏が陛下に将棋をお誘いした所、陛下はお喜びになり、民間人として戦後初めて氏と将棋をなさったと、
後年、氏が記者達に話しておられたようです。
誠に残念ではありますが、氏は2006年9月14日未明にお亡くなりになられました。このときのお通夜(9月18日・東京都荒川区町屋斎場)で、
平野勇夫氏(元毎日新聞取締役・編集主幹)が「お別れの言葉」の中で、このことに触れられました。これを山本信雄が参列して聞いていますので、
確かなお話と思われます。このときの勝敗については不明です。
2. 「世界は一つ東京オリンピック」の大会標語 仁藤正俊氏は、毎日新聞東京本社運動部長として 「世界は一つ東京オリンピック」の大会標語を作ったキャンペーン事業に携わり、 これを1964年の東京オリンピックの公式標語として定着させ、日本全体を盛り上げた功労者であります。 なお、この標語は、上記の引用サイトに書かれているように、名古屋の中学生の作品です。
3. 仁藤正俊氏の最後のテレビ出演
2004年4月13日(火曜日)に、テレビ東京の20時54分から放映された
「開運!なんでも鑑定団」の番組最後のほうで,
伊香保温泉の女将が持っている
岡本太郎画伯がマラソンの
アベベ選手(
ローマオリンピックと東京オリンピックの2大会連続優勝したエチオピアの選手)を描いたデッサンの原画が持ち込まれました。
これは、1964年の東京オリンピックを盛り立てるために、毎日新聞が有名な選手のデッサンを連載していた内の1つで、それを企画したのが、
毎日新聞東京本社運動部長であった仁藤正俊氏でした。
4. 仁藤正俊氏の略歴
仁藤正俊氏は戦前に早稲田大学法学部卒業。同大学の剣道部主将として剣道部をアメリカ派遣。卒業後、毎日新聞社入社。
戦時中は、従軍記者。戦後、毎日新聞社社会部に復帰し、水戸支局長、静岡支局長を経て、東京本社運動部長、さらに、西部本社編集局次長、
北海タイムス社社長、日本武道館事務局長を歴任。
仁藤正俊氏は2006年9月14日未明に肺炎がもとで92歳でお亡くなりになりました。お通夜の会場で、 奥様(仁藤貴子様)からご配布になった「仁藤さんのプロフィール」に氏の生涯が詳しく紹介されていますので、 これを全文、次にご披露します。執筆は毎日新聞社の(OBの?)方と思われます。 [註]個人情報保護のため、原文中にある実名を一部伏せさせていただきました。 [仁藤さんのプロフィール]
「20世紀を駆け抜けた男」。1913年にスタートし、世紀の大半を埋めた自分の人生を仁藤さんは、
こう表現されたことがありました。ご自身のこととはいえ今は亡き大先輩を偲ぶ時、言いえて妙とはまさにこのことでしょう。
このころから仁藤さんは既にアイデアとネットワークの駆使に非凡さを発揮、毎日新聞社に入社したのも使節団の資金集めが縁で、 高石真五郎会長が保証人になったからでした。 縁と言えば、社会部から従軍記者に転じた太平洋戦争中、ガダルカナル島の惨敗をめぐって鋭く対立した実戦部隊司令官と大本営参謀の2人、川口清健司令官とはボルネオ攻略戦で、辻政信参謀とは敗戦濃いミャンマー(ビルマ)で知遇を得るという稀有な体験もされています。 敗戦でビルマから帰社し、社会部に戻ってからのニックネームが特ダネ小僧、戦災復興資金の融資をめぐる 昭電疑獄では他社を圧倒し、検察からは捜査妨害で睨まれて1ヶ月足らずですが、”逃亡生活”を余儀なくされました。 その後、水戸、静岡支局長を経て36年8月に運動部長、東京オリンピックという大きな大きな鉢で、 アイデアとネットワークにもの言わせた大輪の花を咲かせるのです。その時の社長賞の賞詞「あなたはオリンピックをめぐる諸企画の立案推進において、 著しく貢献されました」が全てを物語っています。 あくまで筋を通す方でもありました。そのためには利害や他人の思惑など全く無視されましたが、それでいてなかなかの喧嘩上手でした。 西部本社編集局次長などを歴任し北海タイムス社長になった時、大株主を相手に四つ相撲を取り、政商と言われた人物から会社を守り通されたのです。 そして東京九段の武道館事務局長、職員の給与を公務員のベアに準じ、労使の紛争を封じるなど数々の新機軸を打ち出されたと聞いています。 お元気な時は2G(ゴルフに碁)に麻雀、後輩達と盃を交わしては談論風発を楽しんでいました。口では厳しいことを言いながら、 陰で細やかな気遣いをされる方でもありました。 そしてアイデアが浮かぶと実現にむけて一直線、決して足踏みはされませんでした。まさに疾風迅雷、21世紀まで駆け抜けてしまわれたのです。 茫然とする後輩たちを残して――。
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主賓の毎日新聞社本社 元・運動部長 仁藤正俊・貴子ご夫妻 1990年12月10日 |