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日本国有鉄道(現在のJR)のオレンジカード(現在は スイカに移行)にプリントされた当時の特急つばめ号
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1950年代前半の日本国有鉄道(今のJR)の特急は、東海道本線の特急 つばめ号,(その2)(その3)と はと号,(その2)の2種しかなく、それぞれ上りと下りの各1本しかありませんでした。すなわち、国内に特急が1日4本しかなかったのです。まだ、戦後10年も経っていない頃です。これに乗れるのは超エリート族だけ。日本の人口が8600万人の時代です。ところが、父の転勤のお陰で、小学校5年になったばかりの私が乗れたのです。
1953年(昭和28年)4月中旬に、父・山本弘が日本石油㈱大阪営業所から仙台営業所に転勤になり、家族全員が大阪駅から特急つばめ号で東海道本線を横浜駅まで乗車しました。転勤を機会にと父が奮発したのでしょう。
先頭は蒸気機関車(C62形?、C59形?、のどちらからしいのですが、分かりません。)、最後尾は1等展望車。途中は、2等車と3等車、および、食堂車。私たちは3等車。全列車指定席です。会社の方々のお見送りの中、大阪駅10番線ホームを9時に出発です。構内アナウンスの声。「まもなく10番線より東京行き特別急行列車つばめ号が発車いたします。お見送りの方は危のうございます。白線まで下がってお見送りください。」。
これが2,3回繰り返された後、リーーーーーンというかなり長いベルの音。そして、汽笛一声、ポオーーーーー。静かに音もなく発車しました。「次の停車駅は京都ぉー。次はぁー京都ぉー。次はぁー京都ぉー。」と名残惜しそうなアナウンスの声。ホームが遠のいて幾つかのポイントを通過しながらしばらくはゆっくり走りますが、次第に加速し、淀川橋梁を渡って東淀川駅を通過。吹田操車場の圧巻を横目に見ていつの間にか30分が経ち京都着。「京都ぉー。京都ぉー。京都ぉー。」と駅のアナウンス。という具合に、停車駅は京都、米原、岐阜、名古屋、浜松、沼津、横浜、東京。東京終着は17時です。静岡は通過です。その代わり、昼に出発する「はと」号が、浜松を通過する代わりに静岡に止まり、沼津を通過する代わりに熱海に止まります。
特急はやはり早い。だが、当時、国鉄(省線)の京都・大阪間で走り始めていた新型の 急行電車
[ このページの最後尾にその写真があります]
(その2)(その3)
の速さから見ると、それ程でもないかな。車窓の景色がビュンビュン後ろに飛んでゆく程ではないのには、ややがっかりでした。瞬間最高速度で時速90キロ位?。高速走行時の蒸気機関車はそれほど煙を出しません。このときの蒸気機関車の音は、シュルシュルシュルシュルシュル・・・。
名古屋では大阪と同じ省線電車(当時未だ国鉄電車をこのように言っていました)が走っている、と思いきや、名古屋鉄道(名鉄)の電車でした。昼食は食堂車で。
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(参考)東海道本線上り修学旅行用臨時列車 静岡県内の菊川駅と金谷駅の間
1959年10月28日(木)
札幌南高校11期生の奥野和弘氏が撮影
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広く明るい浜名湖とその付近のウナギ養殖場を眺めるうち、日差しの明るい浜松駅に到着。浜松を出発してから沼津までの長時間の車窓の景色で目を引いたのは、どこまでも続く静岡のお茶畑、雲一つない富士山、そして、由比ヶ浜でした。父は1人で展望車に行って展望を楽しんだようです。子供を連れて行くのは足手まといだったのでしょう。 沼津で蒸気機関車から電気機関車に交換です。停車時間が少し長めでした。沼津を発車してしばらくすると丹那トンネル。これが長い。これを抜けて初めて関東に入りました。横浜で下車です。東京駅で降りるのかと期待していましたので、子供心にがっかりでした。鶴見にある会社の寮に2泊するために横浜下車でした。
東海道本線が全線電化されたのが1956年(昭和31年)。上記の旅からわずか3年後でした。この後、東京・大阪間を6時間半で結ぶビジネス電車特急「こだま」が、「つばめ」と「はと」に替わって主役に登場して以来、国鉄の黄金期が訪れます。1964年(昭和39年)10月1日に新幹線が開業して、新幹線特急「ひかり」と「こだま」が多数本、東西を結び、東京・博多間の「のぞみ」も加わって現在に至ります。
一方、特急「つばめ」は紆余曲折、1975年以来途絶えた時期もありましたが、その後復活し、現在(2010年)では新幹線特急として九州を走っているそうです。
また、大きな「つばめ」マークをつけたJR高速バスが全国の高速道路を走っています。
[追記1]蒸気急行みちのく号乗車記(1953年4月)
上記の翌々日、上野駅から仙台に向けて、急行みちのく号の2等車に乗りました。初めての東北入りです。 午前の上野駅は薄暗く、ホームに待機していた「みちのく」号は薄汚れた感じでした。発車のアナウンスは上記の大阪駅と大差ありません。「まもなく常磐線経由、青森行き急行列車みちのく号が発車いたします。お見送りの方は危のうございます。白線まで下がってお見送りください。」 これが2,3回繰り返された後、リーーーーーンというかなり長いベルの音。そして、汽笛一声、ポオーーーーー。静かに発車しました。「次の停車駅は土浦ぁー。次はぁー土浦ぁー。次はぁー土浦ぁー。」停車駅は、土浦、水戸、日立、平(現在の「いわき」)、原ノ町、仙台です。なぜ常磐線経由かといえば、東北本線の方は山越えをしなければならないことと単線区間が多いことのようで、この点、常磐線はアップダウンが殆どなく、しかも、常磐炭田の石炭輸送のお陰で平駅まで複線化されているからだそうです。ただし、平駅以北は単線でカーブが多い。
途中、目ぼしい印象は、川筋から垣間見た霞ヶ浦、水戸駅での女性アナウンスの声(当時、きわめて珍しい)、日立市の久慈川付近と工場群、仙台到着前に通過した長町操車場の圧巻、でした。
[追記2]蒸気急行みちのく号乗車記その2、および、青函連絡船「摩周丸」の乗船記(1955年6月)
1955年(昭和30年)5月に、父が日本石油㈱仙台営業所から北海道の小樽営業所に転勤になり、中学校1年になったばかりの私が家族とともに仙台から青森まで急行みちのく号の特別2等車で移動しました。
会社の方々と私の同級生の沢山のお見送りを戴いて、午後仙台駅を出発。駅のアナウンスは上記とほぼ同じ。停車駅は、私の記憶では、小牛田、一関、水沢、黒沢尻(現在の「北上」)、花巻、盛岡、 沼宮内
(その2〔インターネット・アーカイブのバックアップ[backup at the Internet Archive]より抽出〕)
、尻内(現在の「八戸」)、三沢、野辺地、浅虫、青森です。
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利府駅北方の東北本線・内陸線跡 番ヶ森山付近
1965年9月13日(月)撮影
私たちの急行もここを通って 青森に向かいました。
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同上
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仙台を出発して直ぐに、当時の東北本線は松島海岸を辿る海岸線と、利府経由の内陸線の2本があって、当時の主力は内陸線でした。
[註]1960年代後半から海岸線が主力となり、内陸線は廃止されました。
一関から夜となりましたが、夜行列車は情緒があります。真夜中に青森終着。「あおもーり。あおもーり。あおもーり。」と幾度も繰り返すしみじみとしたアナウンスがあるなか、静かに静かにホームに到着です。ああ、北の果てに来たなあ、と感じました。別のホームには日本海側を北上してきた別の急行も到着しました。
青森駅で降りた乗客の殆どが北海道に渡る乗客のようで、列車から降りると皆プラットホームを猛ダッシュして、青函連絡船に渡る2階通路の階段下に駆けてゆきます。しばらくそこで待たされたのち階段を上り、2階通路を我先にと走って行きます。この通路が長い。やっと、連絡船「摩周丸」に乗船、と同時に自分の寝床の確保です。特に、3等船室は超満員で、枕と毛布の奪い合いと寝る場所の取り合い。私たちは会社の転勤費用のお陰で2等船室だったので余裕がありました。
深夜0時半出航。出航アナウンスの後、大きなドラの音がゴン、ゴン、ゴン、ゴン、ゴーン、ゴーーン、ゴーーーン、ゴーーーーーーン、と鳴り、「別れのワルツ」(4拍子の「蛍の光」を3拍子に編曲されたもの)が流れます。まるで、外国に行くような惜別の念が高まります。汽笛がブオーーーーーーーーーッ。静かに静かに船が岸壁を離れてゆき、沢山の紙テープが船上の旅人と岸壁にいる見送りの人との間に名残惜しそうに次第に長くなります。
出航してまもなく大時化のため、上下左右、大揺れに揺れました。8328トンもある船がこんなに揺れるのだろうか。揺れの周期は5秒から10秒。そのうち沈没するのかと思えるくらい。気持が悪く恐怖に顔が青ざめ、とても寝てはいられません。
[追記3]蒸気急行「大雪」乗車記(1955年6月)
[追記2]に記述した青函連絡船「摩周丸」が朝に無事、函館港に接岸。直ちに下船して、そのまま、函館駅のホームに向かうと、既に急行「大雪」が待っています。出発まで、かなりの時間があり、初めての函館の印象は、イカの匂いが立ち込めた寒そうな町だなあ、と。鉛色の曇り空。列車内(2等車)も急行とは思えないくらい薄汚れて寒々とした感じでした。
アナウンスとともに発車。函館の町をあっ気なく過ぎると本州(内地)とは全く違う単調な景色が車窓を流れます。この急行、スピードが出ない。冷雨が降ってきました。終着は何処か忘れましたが、札幌までの停車駅は、私の記憶では、軍川(現在の「大沼公園」)、森、八雲、長万部、倶知安、小樽、札幌です。
印象に残っているのは、屋根に石を沢山載せた作業小屋が噴火湾(別名、内浦湾)の波打ち際に点在する侘しい景色、畑でもない、森でもない、潅木の林や原野が続く単調な景色、雨雲の切れ間から一瞬見えた富士山そっくりの雪で真っ白な羊蹄山(マッカリ岳、または、蝦夷富士ともいう)、それと、倶知安駅のアナウンスが女性の声だったこと、です。
「おたーる。おたーる。おたーる。」という駅アナウンスのしみわたる声の中、列車は静かに静かに小樽に到着です。雨は上がったようです。私たちはここで下車しました。札幌駅で降りるのかと期待していましたので一寸がっかりでした。小樽にある会社の寮に1泊するためでした。
翌日、普通列車で手稲駅で降り、駅から北に歩いて10分の所にある日石社宅の新居に着きました。石炭ガラが床にこびりついた真っ黒な家です。ワラジ虫が板戸の隙間を這い回っています。同じ会社の奥様方(二通さん、木村さん、清川さん、近藤さん)が私達のために大掃除をして下さっていました。有難うございます。水は井戸水で、手押しのポンプで汲み上げる生活の始まりでした。
[追記4]蒸気急行「日本海」乗車記(1953年3月)
上述から遡って1953年3月から4月にかけて母の実家の結婚式のために、大阪から新潟県の直江津まで下り急行「日本海」の3等車に乗りました。幼児の頃から何回もここを往復しています。大阪駅10番線ホーム、22時発の下り急行「日本海」。停車駅は京都、大津、米原。ここから北陸本線に入りますが、いつの間にか眠ります。よって、どの駅に止まったかを記憶していません。
富山県高岡を過ぎた頃に目覚め、地平線まで広がる田んぼの中をたくさんの細い鉄道通信線を支える電柱が次から次へとリズミカルに後ろに流れ去り、同時に、タタッタタッタタ、タタッタタッタタという小気味よく刻むレールの継ぎ目の繰り返し音にまどろみつつ富山に着きます。
ここを過ぎてしばらく走ると天下の剣の1つ親知らず子知らずに差し掛かります。ここが大変。断崖絶壁の目もくらむような高さを走る汽車の窓から下を見ると、日本海の荒波が岩に打ち寄せています。反対側の断崖の上を見ると、機関車の煙突から出た煙と蒸気が崖の岩と樹木や鉄道通信線とその電柱に雲のようにかかります。いきなりトンネル。煙と細かな石炭の燃え殻が窓の隙間から容赦なく客車内に吹き込み、瞬く間に車内は煙で充満。トンネルを抜けて鉄橋に。乗客は皆急いで窓を開けて煙を逃がします。が、汽笛の合図とともにまたトンネル。急いで窓を閉じます。またもや煙の渦。これが何回も繰り返され、糸魚川に着く頃には乗客はヘトヘト。
糸魚川駅は、天下の剣での運転が大変なためと大糸線との分岐点に当たるためか、機関区と貨物の操車場があり、当時、その構内は不夜城でした。その頃が懐かしい。それで、糸魚川の停車時間がかなり長かったような。この駅が天下の剣でのオアシスでした。ここを出発すると、1時間位で信越本線と合流する目的地の直江津に到着です。顔は煤で真っ黒です。一寸大げさかな。ここで普通列車に乗り換えて、東隣の黒井駅で降り、鉄道ファンなら誰でも知っている
頚城鉄道
(その2)
(インターネット・アーカイブのバックアップ[backup at the Internet Archive]より抽出),(その3)
(インターネット・アーカイブのバックアップ[backup at the Internet Archive]より抽出),
(その4)
(その5)
(その6)
(その7)
(その8)
(その9)
に乗るために新黒井駅に向かいます。
なお、頸城鉄道閉業後、その可愛い蒸気機関車は 西武鉄道・山口線 で観光列車の牽引機関車として活躍しました。その使命を終えた後、新潟県上越市頚城区百間町に里帰りして百間町駅跡の機関庫に温存されているそうです。
[追記5]蒸気急行「日本海」乗車記その2(1958年8月)
私が高校1年の夏休みに新潟の父母の実家に家族で青森から直江津まで上り急行「日本海」の2等車で行きました。朝、青森を発車して、停車駅は、私の記憶では、弘前、碇ヶ関、大館、東能代、秋田、羽後本荘、酒田、余目、鶴岡、村上(停車したかな?)、坂町、新発田、新津、東三条、長岡、柏崎、そして目的の直江津に到着したのは夕方でした。なお、この列車の大阪終着は翌朝です。直江津まで、昨夕札幌を出発してから24時間以上の長旅でした。
途中、秋田駅を過ぎてまもなく、急停車したのです。車内放送によると、私達の列車が線路内に入り込んでいた牛に衝突したとのことです。約、10分間停車していました。地元紙のニュースになったかなあ?今はこんなことないですよね。
新潟県内の幾つかの途中駅では当時、各種の軽便鉄道が乗り入れていました。また、当時は貨物列車も多く、ある駅で貨物列車の石炭を満載した無蓋車の隣に止まったので、いたずら半分に窓から手を伸ばして石炭一かけらを取ってみました。黒光りのする無煙炭(黒ダイヤ)です。ハッハッハ。当時はこんな時代です。
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