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日本石油で猛烈社員として活躍した山本弘の思い出

ノンスペース 型計量機は、ガソリンスタンド(給油所)の天井から給油口が下りてくるタイプ、即ち、り下げ式の給油機で、知らない方はいないと思います。
この発明は㈱東京龍野製作所(現:㈱タツノ・メカトロニクス)さんによってなされ、この発明に対して(社)石油学会から1966年度第3回の技術進歩賞が授けられています。
しかし、この当初の発案者は、当時、日本石油㈱に勤務していた山本弘(故人)であることは誰もご存知ありません。


1.   ノンスペース型計量機の発明秘話

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日本石油大阪支部和敬会(同窓会)にて
1985年頃

    山本弘は、戦後、日本石油㈱ [日石と呼ばれていた。現在の、ENEOS株式会社 ] の大阪営業所、仙台営業所、小樽営業所を経て、1960年代、札幌支店総務課工務係長として、北海道全域の日石関連の油そう所、給油所の設計・施工の全てを取り仕切っていました。この関係で、全国の石油関連工事会社、給油所の経営会社、計量機メーカー等、広範囲の企業との取引に多忙をきわめ、週1回のペースの出張に、道内だけでなく全国各地に駆け回っていました。これは、油槽所や給油所の設計段階から工事期間、開所式まで、現場に行って指揮を取るためです。札幌支店にいるときも、営業時間の後、毎夜、取引業者との商談や懇談を行ない、自宅に戻るのは深夜という生活でした。
    ある給油所の設計段階で、街中の敷地が十分でないために、計量機設置スペースが不足するという事態になり、このことについて取引先の或る計量機メーカーから山本弘に相談が持ち込まれた訳です。それで、勤務時間後の行き付けの場所で、父はそのメーカーと懇親こんしん方々かたがた酒宴しゅえんの席で、その懸案けんあん事項を話し合ったわけです。
    アイディアの豊富な山本弘が、「地上の設置が無理ならば、給油口が天井から下りてくるような計量機はどうだろう。」と話したのが切っけとなり、計量器メーカー側の開発をうながし、結果として、TATSUNO ㈱ タツノさんの特許となった由です。そして、この発明に対して(社)石油学会から1966年度第3回の技術進歩賞が授けられています。


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ノンスペース型計量機
茨城県ひたちなか市足崎たらざきにあるサカイ㈱の
足崎給油所にて。
所長の小野瀬 豊氏。
2011年12月31日(火)撮影
ここは筆者(山本弘の長男・山本信雄)が贔屓ひいき
にしている給油所です。

    その後、山本弘は、広島支店に転勤し、さらに、大阪支店工務課勤務を最後に55歳で日本石油㈱を定年退職しました。続いて、取引業者の1つであった石油関連工事の請負い会社である新潟工事㈱ [下註] に勤務した後、69歳で引退をした父は私が運転するドライブで、通り過ぎるガソリンスタンドを見る度に、「あの給油機(計量機)は、本当は、おれが考え出したんだよ。特許は取引業者だけどね。」と、長男の山本信雄に思い出したように語っていました。長男が、「お父さんの名前は入っていないの?」と聞くと、「言い出したのは俺だけど、開発したのはアチラさんの会社だから、入っていないよ。」ということです。その言い方は、残念そうではなく、ごく当たり前、といった感じでした。
   そういえば、山本家内の個人的な出来事があったときにも、先のメーカーの社員さんたちは、何かと便宜べんぎを図って下さったことを思い出します。遅まきながら、この場をお借りしまして、㈱タツノ・メカトロニクスさんに御礼を申し上げます。

    山本弘は札幌・東京間の出張も多く、日本航空のオーロラ便、(同左 )も利用していました。そのオーロラ便は、石油危機の1974年になくなり、第1期高度経済成長期が終った感があります。
    当時、NHK・FMの深夜放送に城達也の「ジェットストリーム」があり、団塊だんかいの世代を初め、熟年の方々にはなつかしいですが、そのイメージが丁度オーロラ便と重なります。
    山本弘は典型的な「モーレツ(猛烈)社員」であり、「社用族」でもありました。山本弘は70歳で引退した1985年まで日本経済の高度成長と共に生き、引退と共に日本経済も下降線を辿たどることになりました。

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三重県湯の山温泉・御在所ロープウェイ入口にて
1995年12月31日(日) 妻(美枝)とともに
この半月前に74センチの大雪あり


    [註]その後、新潟工事㈱は2000年10月に㈱三興製作所と合併し、新興プランテック㈱が発足しました。同社は2007年3月に東京証券取引所市場第一部に株式上場しています。
   以上は、山本弘と交流のあり、当時お若かった(元)新潟工事㈱社員の真木雅昭氏にお教えいただきました。有難うございます。


2.   給油所での物品販売の創始者

    1960年代の給油所(ガソリンスタンド)では、消防法等の規制により、石油類以外の物品の販売は禁止されていました。山本信雄が学生の頃、父・山本弘の紹介で、夏休みに札幌市内の或る給油所でアルバイトをしていましたが、給油所への石油類の輸送は現在のタンクローリーではなく、石油類を入れたドラム缶をトラックに載せて運んでいました。私のアルバイトでも、ドラム缶をトラックから降ろして、地下の油槽に入れ変える作業をして油まみれになり、工場の一角のようで、とても一般商品を扱う雰囲気ふんいきではありませんでした。
    その内、時代と共に給油所もスマートになり、山本弘は、お客さんの便宜べんぎのために、コーヒーなどの自動販売機の設置や一般の物品(グッズ)の販売を給油所内で始めることを考えます。しかし、消防法等の壁は厚く、販売許可は下りません。それにもげず、弘は消防署、市役所、道庁、果ては、東京の中央官庁を回って、一般商品の販売に対する安全性を説いて回り、時期は聞いていませんが、ついに、あるガソリンスタンドで一般商品の販売許可を取り付けたといいます。
    今は、全てのガソリンスタンドで各種物品を販売していますが、生前、山本弘はドライブの度にこのことを息子の山本信雄に話していました。


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給油所の開所記念の煙草盆たばこぼんに描かれた
コウモリマーク
(左)とカルテックスマーク(右)
日本石油の商標であったコウモリマ ークはコーモ
リの姿を「日本」という漢字にデザインしたもの。
カルテックスマークは当時、日本石油㈱が提携
していたアメリカのカルテックス社のマーク。

昭和33年(1958年)頃


3.   コウモリマーク

    日本石油㈱は1888年新潟県で設立されて以来1983年まで社章としてコウモリマークを使用していました。山本弘氏の語るところによると、創立当時の新潟県内(当時は新潟県内でそれ相応の量の石油を産出していました)の本社で会議を開いていたときに、いていた窓からコウモリが飛び込んできたそうで、「これは何かの縁だ」、または、「これは縁起がいい」という事で、このコウモリを社章と決めたそうです。
    右図は、昭和33年(1958年)頃に関連会社から配布された煙草盆たばこぼんに描かれたコウモリマーク(左)とカルテックスマーク(右)です。この受け皿(図にはありません)の裏には土岐津産業㈱と書かれています。
    コウモリマークは、上記のように、日本石油㈱の社章で、コーモリの姿を「日本」という文字にデザインしたものです。カルテックスマークは、第2次世界大戦後から1996年まで日本石油㈱が提携していたアメリカのカルテックス社のマークです。


4.   放送局で山本弘がえた

    1960年頃、または、それより一寸前に、40歳代の山本弘がNHK札幌放送局であったか、HBCラジオ(北海道放送)であったかを忘れましたが、「石油の未来」について放談する機会がありました。当時は、石炭産業が全盛期の頃です。
   話の内容を要約すると、「やがて、石炭産業は衰退期に向かい、これからは石油の時代になるでしょう。石炭産業の関係者は、今から対策を練っておいたほうが良い。」というもののようです。このことで、山本弘は上司の札幌支店長から「何ということを言うんだ。石炭産業を敵に回すようなことをしゃべって、日本石油に圧力がかったらどうするんだ。」と、散々さんざん油をしぼられたそうです。
    弘の多くの取引関係者たちは、「山本さんの言われるとおりだと思います。」と皆賛同するのにもかかわらず、石炭産業の関係者は、自分達の産業が衰退するなどとは夢にも思っていないだけでなく、弘の発言にも全く耳を貸そうとはしなかったそうです。
   時代が流れ、事故災害や人件費の高騰こうとうも手伝い、日本のあちこちの炭鉱が次々に閉山に追い込まれ、石炭産業を支える従業員達の再就職にも大きな問題をかかえることになります。これを見て、弘は、「あのときに僕が言ったことを少しでも石炭産業が聞いていれば、こんな悲惨なことにはならなかっただろう。」と述懐じゅくかいしていました。


5.   日中戦争(日華事変)に従軍したときの山本弘の話

    1937年(昭和12年)に日華事変が始まって直ぐに、日本石油㈱横浜製油所に入社ましたが、その後間もない19歳のときに、山本弘に召集しょうしゅう令状(通称、赤紙という)が下り、第2師団・高田連隊で2ヶ月の訓練の後、倉林部隊の2等兵として広島市宇品港から中華民国(支那)の上海に向けて参戦しました。上海上陸のときは、上海市街戦真っ只中まっただなかで、上陸直前、山本弘のすぐ隣にいた仲間の兵士は流れ弾に当って即死したそうです。上海上陸でさえ、死に物狂いだったそうです。上海が平定したあとは、長江(揚子江)沿いを内陸に向かって進み、数年後に、南京陥落かんらく、そして、伍長ごちょうに昇格した武漢で内地(日本)への帰還命令が出ます。おびただしい人数の犠牲者ぎせいしゃが出るなか、山本弘は死の危険もあり、また、マラリヤにもかかりましたが、無傷で帰還できました。マラリヤは高齢までその影響がありました。
    山本弘の一兵卒としての体験談で、今では聞くことのできない話を書きます。実話です。


(1) 戦争は悲惨、少年兵達のことなど

   戦闘では100メートル近くの至近距離となりますが、相手の姿は見えません。相手から、銃弾が、ヒュン、ヒュンと耳をかすめ、目の前の土にもはじけて土煙が立つなか、見えない相手に必死に銃弾を向けますが、ほとんど目暗撃ちだそうです。時には、隣の仲間が撃たれる。恐怖でここを立ち去りたい気持ちになりますが、「転戦だ!」という上官の命令がなければ、その場から退却できません。やっと「転戦だ!」と号令が下ると、ホッとして直ちに退却するのだそうです。

    [註]「退却」という女々めめしい言葉は日本の軍隊では禁止とのこと。こちらに不利のときは「転戦」というのだそうです。

    相手が退却する場合が多いのですが、このときは、相手の陣地に行き、倒れている兵士の持ち物検査をします。真っ先に目に飛び込むのは、「何と幼いんだろう。」という印象だそうです。どの兵士も15歳前後か。倒れている相手兵士の軍服から先ず出てくるのは、大事そうに兵士と共に写っている家族の写真だそうです。日本兵はこのような写真を持つことは、女々しい、ということで禁じられているそうです。写真を見て、山本弘は「可愛そうだなあ。戦争は悲惨だなあ。」と涙が出るそうです。
    内地では当時、中国兵は弱い、と言われていましたが、山本弘の話ですと、「決して弱くない、どちらも死ぬか生きるかで必死だ。ただ、日本は、相当の犠牲者が出ても退却しない。それに対して、中国兵は、一定の割合で犠牲者が出ると、直ぐに退却する。その差に過ぎない。どちらが良いかは分らない。日本は強引だが、向こうの方が合理的かもしれない。」と言っていました。
   1ヶ月近くも山本弘の小隊が中国の部隊に追い回されることがありました。このときは逃げるのに大変だったそうです。やっと友軍の部隊に合流して助かったとか。

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日本が中国を侵略するという
大罪を犯した日中戦争に、
国令によって召集されて
従軍した父・山本弘
小隊長の軍馬

1939年頃か?
場所は南京と武漢の間か?

    中国の山は禿山はげやまが多く、平野を行進中、向こうの山の中腹に敵の部隊がいるのが見えるよし。「敵さんはあそこにいる。」と。しかし、弾が届かないので見るしかない。やがて、その山に到達しても、相手は何処どこに行ったか分らなくなる、と言います。
    行軍の道筋は、前もって軍用機で航空写真(勿論、モノクロ)を撮ってあり、それを基にした地図は用意されてはいる由。しかし、細部までは分らないので、現地の日本贔屓びいきの中国人を案内人として雇うのだそうです。
    部隊は次第に内陸に進むので、線的な経路でしか占領できません。そこから両脇は占領できないでいます。そこで、部隊長がある兵士に、「何処どこそこへ行ってさぐって来い。」と命令します。命令された兵士は、中国人に変装をしてその任務遂行に部隊から離れていきますが、予定の日時を過ぎても帰って来ないときは、「もう駄目だめだな。」と、相手の手に懸かって犠牲になった、と判断してあきらめるそうです。


(2) 九死に一生

    ある戦闘で軍友が相手の銃弾に倒れ、近くにいた山本弘が倒れた軍友を助け起こして、肩にかついで歩き始めて十数歩、助け起こしたその地点に大砲の弾が炸裂さくれつしたそうです。多分ねらわれたのでしょう。あと、数秒遅ければ、2人とも微塵みじんに散っていたといいます。山本弘は長男の信雄に、時々言いました。「もし、俺が数秒遅れたなら、お前はこの世にいなかっただろう。」と。

(3) 日本兵の中国娘への強姦ごうかんを山本弘が思い留ませ、娘の家族から歓待を受けた

    占領下に置いた村は、日本軍のやりたい放題で、もし、それに抵抗すれば、抵抗した中国人の命はありません。日本兵の中国の生娘への強姦もしかり。ある晩、山本弘の戦友たちは、「オイッ。あそこの家の娘は美人だな。やろう。」と実行に移しかけたときに、山本弘は、「まて。それは道徳上決して良くない。めよう。」と、仲間を説得したそうです。
    どのようにしてこのことを知ったのか、その娘のお父さん、お母さんが山本弘1人をその家に招待してくださり、「娘を助けて下さって、本当に有難うございます。このご恩は一生忘れません。」という具合に、極上の料理でもてなしてくれた、と、山本弘は言います。そして、「あの村は貧しいし、あの家も豊かではなかった。なのに、あんな物凄ものすごい高級な中国料理をどのようにして用意できたのだろうか。」と述懐していました。


(4) 南京大ぎゃく殺について

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弘の軍人恩給   弘の亡き後、
遺族年金として妻がもらっていました

    南京大虐殺については不明な点が多く、日本の見解と中国の主張が今でも大きく食い違っています。日本は自分の非を過小評価に抑えたがる傾向にあり、中国は、歴史的にも、誇大解釈したがります。
    2007年頃、NHK総合テレビの「その時歴史は動いた」の番組で、南京大虐殺について史実やご存命の将校の自叙によって取り上げられました。これによると、当時の首都であった南京を陥落させて、城内(旧市街は城壁に囲まれていた)に日本軍が入城したときに日本軍が先ず見た光景は、大量の軍服が脱ぎ捨てられている、ことでした。それで、日本軍の解釈では、「中国兵は皆民間人に変装したのだ。民間人といえども兵士に違いない。皆、引っ捕らえい。」ということで、残っていた南京市民は皆捕らえて、長江(揚子江)の岸壁に連れて行った由。すると、捕らえられた中国人は次々に川に自らの身を投げ、日本軍は機関銃でそれを乱射したのだそうだ。長江は真っ赤に染まった由。
    山本信雄はこう考えます。大量の軍服が脱ぎ捨てられている、ということは、白旗を揚げたと同等と解釈できます。明確に白旗を揚げなかった理由は、相手の捕虜には日本軍は容赦なかったからと思います。数年前のイラク戦争等を見て分りますように、戦争とは疑心暗鬼になって、何がどうなるかが分らなくなることです。
    そのころ、山本弘は何をしていたかといいますと、南京郊外で歩哨(敵が攻めてこないかと見張る役)をしていた由。それで、長男が山本弘に「南京大虐殺のことは知っていたの?」と聞くと、山本弘は「南京市内では何かあったらしい。何かは聞かされていないが。」と話すのみで、何があったのかは本当に知らないようでした。


(5) 戦利品で作った「武漢入城紀念」の銀のフォーク

    武漢に入城した記念として、「武漢入城紀念」ロゴ入りの大きな銀のフォークが配られました。それが、山本弘の形見の一つとなりました。
    後年、平和な時代の若者たちを見て、弘は「おれには青春時代がなかった。」とさびしそうでした。


6.   水戸黄門、(同左)のファン

    山本弘は大の水戸黄門ファンで、古くは長編講談「水戸黄門漫遊記」を読み、後年、TBS系のテレビドラマ「水戸黄門」同左)を毎回見ていました。
   亡き後は、茨城県常陸太田市にある水戸徳川家歴代の墓所「瑞竜山」(現在、墓所内の見学はできません)から直線距離で1キロも満たない南西方向にある、常陸太田市の「瑞竜霊園」に永眠しています。

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長男と山本弘の思い出 山本弘の墓誌

7.   日本石油㈱大阪営業所の本田ほんでん社宅(尼崎市)

    本田社宅は武庫川の東側に位置する兵庫県尼崎市西字本田31番地~34番地に戦前からあった社宅ですが、1990年には取り壊されて、現在はアパートと駐車場になっています。
   山本弘は家族と共に、1946年(昭和21年)から1953年(昭和28年)4月までと、1966年(昭和41年)から1970年(昭和45年)までの2回、この社宅で生活しました。当時の55歳定年退職を迎えた1971年に、大阪府高槻市東五百住町の芥川畔に小さな2階建ての居を構えました。そこも10年後には引き払い、三重県志摩郡阿児町についの住まいを構えました。往年、伊勢志摩にあこがれていたからです。
   当時、大阪営業所勤めであった方々の懐かしい本田社宅は次の画像です。(ご存命の方は少なくなられたかも知れません。寂しい限りです。)

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雪の本田社宅
1947年頃
本田社宅2階表
1969年8月13日(水)
本田社宅2階表
1969年8月13日(水)

2階表から会社の寮を見る
1969年8月13日(水)
2階裏から武庫川の
堤防を見る

1969年8月13日(水)
2階裏から大庄新市
場方面を見る

1969年8月13日(水)

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猛暑の広島の社宅にて
1965年頃の夏 両名とも49歳位

まつり博覧会での弘氏ご夫妻
1994年8月 伊勢市
8.    珍しく家庭にくつろぐ弘氏

    右の写真は、1965年頃の広島支店勤務時代の借り上げ社宅の茶の間で、広島の猛暑のなぎの夕方に妻・美枝とくつろいでいる写真です。弘は新聞を見、美枝さんは編み物をしています。弘は普段多忙なので、2人揃ってくつろぐことは案外珍しいのです。


9.   晩年の弘氏

    晩年のひとコマが右下の写真です。弘氏ご夫妻ともに78歳です。




[山本弘の略歴]

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30歳頃の山本弘氏   
1945年頃 ?

    1916年(大正5年)2月7日 新潟県中頚城くびき保倉ほくら村(現在の、上越市)大字駒林1109番地にて、山本清作の三男として生まれる。
    1928年 保倉村立小泉小学校卒業
   1931年 1911年創立の中頚城郡立直江津農商学校(現在の、県立直江津高校)商科卒業。(本当は、5年制の高田中学校に行きたかったようですが、農家の三男ということで、父親の許可が得られなかった由。父親は、「お前は商人になれ。」の一言で行く先が決まった由。)
    1931年~1932年 横浜市内の或る卸問屋おろしどんや丁稚奉公でっちぼうこう(ここでは、朝8時から夜10時までの店の仕事、主人の御飯の支度、炊事、洗濯、家事、子守などあらゆる仕事をする。寝る時間は夜0時から翌朝6時のたった6時間。但し、住み込みで、食費等はタダ。休日は月に1日だけ。給料に相当するお小遣いは、月に50銭銀貨1枚。)
    1932年~1936年 上記卸問屋が昭和の大不況(世界的な大恐慌)で倒産。この時分は、大学卒のエリートでも、日雇いの仕事しかなく、山本弘も、日雇いの仕事を転々と。そのときの同業者にも、多くの大卒の人がいたという。
    また、隅田川の浚渫しゅんせつ工事(泥すくいのこと)をする。このときに、浚渫機械を操作ミスで壊して、親方にえらく怒られた由。
    それから、下町のマッチ工場に。自転車を使ってマッチの配達を、遠く、横須賀や埼玉県の川越まで砂利道を行ったそうです。(当時、舗装はありません)。また、東京市内でも当時、信号機はなく、四つ角は交通巡査による手信号でしたが、山本弘は田舎者ですから、この手信号の意味を知らずに通過してしまい、巡査から「コラーッ。その男止マレーッ。」と怒鳴られて、巡査は交通整理を止めて、山本弘は延々30分に渡って怒鳴られ続け、手信号の意味を叩き込まれたそうです。
    かく、時代がら、どの仕事も不安定で、転々と職を変えざるを得なかったそうで、相当に苦労されたようです。職が見つからない時や農繁期には新潟の実家に戻って農作業の手伝いとのこと。
    ある日の夕方、山本弘が配達で中流のサラリーマン(当時のサラリーマンはエリートであった)の家庭を訪問した時、奥の間から、すき焼き(当時、一般市民は肉を食べることは、高価なために困難であった)の匂いと家族団らんの声が聞こえ、山本弘は考えました。「このままでは、俺は到底この家庭のように暮らすことは一生できない。よし。一流会社に何とかして就職しよう。」と決意したのです。
    電信柱に貼ってあった広告を頼りに、先ず、日本鋼管㈱の工員募集に応募して面接等の試験を受けましたが、競争倍率は10倍以上で不合格。次に、日本石油㈱の工員募集に募集して試験を受けた所、これも10倍以上の難関でしたが、それをかいくぐり合格したのです。日本石油の発祥が新潟県柏崎なので、同郷のよしみも効いたのかもしれません。
    1936年 日本石油㈱横浜製油所に工員として入社。(当時、社員は月給制ですが、工員は日給制です。辞令にはこう書かれています。「辞令。山本弘。鉄工手を命ず。日給34銭。日本石油㈱」
   1937年~1941年 徴兵により、日中戦争(支那事変)に従軍。この間、日本石油㈱の給与は、実家に払い込まれたという。よって、山本弘は「そのときは親孝行だったよ。」と話していた。
    1941年 帰還後、日本石油㈱関西製油所に転勤
   1941年6月26日 親戚筋の話し合いにより、新潟県中頚城くびき大瀁おおぶけ村[現在の、上越市頚城区]大字市村いちむら新田出身の福田美枝と結婚。兵庫県武庫むこ郡(後、尼崎市)西字南開にしあざみなみびらき711の日本石油㈱工員住宅に居住。
    1942年8月24日 長男・信雄(本ホームページの管理者)をもうける。
    1945年 関西製油所が大空襲により壊滅。関西製油所を閉鎖。山本弘は空襲後の写真を有している。
    1945年 太平洋戦争敗戦終結
   1945年 日本石油㈱大阪営業所に転勤。兵庫県尼崎市西字本田にしあざほんでん31の日本石油㈱社員住宅に転居。
    1946年7月29日 長女を儲ける。
    1953年 仙台営業所に転勤。仙台市半小町はんこまち1の4の日石社宅(新築)に転居。
    1956年 小樽営業所に転勤。北海道札幌郡手稲町字手稲144の日石社宅に転居。
    1957年 札幌支店に転勤。札幌市南24条西9丁目1118の日石藻岩アパート(新築)に転居。
    1963年 広島支店に転勤。広島市牛田町早稲田区の日石借り社宅に転居。
    1966年 大阪支店に転勤。兵庫県尼崎市西字本田34の日石社宅に転居。
    1971年 日本石油㈱を定年退職。引き続き、新潟工事㈱大阪出張所所長に再就職。大阪府高槻市東五百住よずみ町の自宅(新築)に転居。
    1986年 新潟工事㈱を勇退
   1986年3月 隠居先の三重県志摩郡(現在の、志摩市)阿児町神明しんめい1415-28の自宅(新築)に転居。
    1997年10月 老衰で自宅の廊下で倒れたまま起き上がれなくなり、三重県立志摩病院に入院。
   1997年12月17日(水)16時43分 志摩病院にて肺炎で静かに眠るように死去。81歳11ヵ月、ほゞ、82歳。生前の高い意志により、三重大学医学部に医学生の実習のお役に立てるため、献体されました。

余談

    山本弘は、真面目で律義な人で、家庭内でも、子供の行動や言動、生活一般にかなり厳しいものがありました。ただ、仕事の関係で家庭にいる時間は限られていましたが。
    長男の信雄(私)が小・中学生頃、私のだらしない生活態度を見て、「軍隊教育をさせないと駄目だ。この餓鬼がきは。」とよく怒っていました。実際、山本弘は徴兵により日中戦争に従軍していたときは模範兵だったそうで、このことが自慢のようでして、息子の不甲斐ふがいなさを見かねたものと思われます。また、私が一寸反抗的になったとき、弘は「この餓鬼は言うことを聞かない。出て行け。もう、この家に居なくてよい。」、とか、私が何か言い訳をすると「親に向かって何を言ってんだ。お前。子供のくせに生意気だ。この親不孝者め。」、とか、「こんな子を産んだ覚えはない。」、とか、「お寺に預かってもらう。」とよく言われたものです。また、「黙っていればいい気になりやがって。」とか、「つべこべ言わずに早くしろ。」とか、「ああ言えばこう言う。こう言えばああ言う。この天邪鬼あまのじゃくが。」、や、「どいつもこいつもロクでなしで困ったもんだ。」も息子には口癖で、一寸息子に分がありそうなときは、「勝手にしやがれ。」と不貞台詞ふてぜりふいていました。もっと幼いときは、夜、家の外に放り出されたり、庭の物置に閉じ込められたりもしました。また、随分ずいぶんたたかれたものです。
    恐いものといえば、「地震、雷、火事、親父おやじの時代です。
    タメになる格言も飛び出します。「一を聞いて十を知れ」、「百聞ひゃくぶんは一見にしかず」、また、息子が何か分からない事があるときには、「聞くは一時いっときの恥、聞かざるは一生いっしょうの恥」、さらに、「人事をくして天命を知る。」と言って、励ましていました。


山本弘氏の寸描

    山本弘氏は外に優しく内には厳しい、常識的で真面目な人でした。日石勤務中は多忙の毎日で、全国を駆け回っていました。仕事上をはじめ個人的にも、お付き合いの方々が大変多く、年賀状や暑中お見舞いの葉書のあて先を長男の信雄が中学校のときから代筆していましたが、数日を費やしたものです。取引先との時間外の交際も多く、その場所はバー、キャバレー、クラブなど多彩で、東京、大阪の有名店にも上客として出入りしていたようです。経済成長が華やかし頃、テレビでも銀座などの高級クラブが紹介されたときも、一緒にテレビを見ていた家族にも「あのママさんはどうしているかな」と話題に出していました。ママさんから年賀電報も配達されました。
    お中元、お歳暮にはたくさんの贈呈品が配達され、裁き切れず、ビールなどは近所におすそ分けをしていました。時には、国交樹立前1950年代の中華人民共和国製の特大ビンに入っている高級そうな蜂蜜も届けられ、家族はビックリしたこともあります。
    1960年代から取引先との接待ゴルフや社内のクラブ主催のゴルフにも参加し、ハンディは小さくなかったのですが、これは人並みに、優勝などのカップと盾を獲得していました。その他の趣味はほとんどなかったようです。なお、弘氏の身長は158センチ、体重は55キロの中肉中背で、大正生まれとして成年男子の標準でした。
    1986年に現役を引退した後は、隠居先の三重県志摩市阿児町の老人クラブに入り、友人を得て、時々、誘われて英虞湾(真珠湾)等で海釣りをして楽しみました。ほぼ毎日、妻(美枝さん)と近所をウォーキングしたり、スーパー等に買い物に歩いて出かけたりし、庭には、トマト、キュウリ、ナス、大根、ホウレンソウ、サトイモ、カボチャなどの園芸野菜を奥さんと一緒に栽培していました。年とともに、スーパーまでの2キロの距離を電動椅子を使うようになりました。あるとき、居間の蛍光灯を取り替えようとして、コタツの上に脚立を載せて上がったところ、バランスを崩して転倒し、大怪我を負って志摩病院に入院しました。2週間後に退院しましたが、この頃から体が衰えて、ある日、廊下で歩行中に倒れて起き上がれなくなり、再度入院し、その3ヵ月後に老衰に加えて肺炎を併発して静かに永眠しました。お疲れ様でした。生前中の社会へのご尽力と貢献に感謝。合掌。


父の訃報に対する諸兄からの手紙

1.玖島秀雄 氏(広島県賀茂郡西條町上三永、その後、広島市に移住。ご存命ならば百歳をお超えになる)より
   厳しい暮れ行く酷寒です。皆様方の御健勝を御慶び申し上げます。     先日、御長男殿(私・信雄)より思いもかけぬ新しい友人の訃報の連絡を承り落胆耐え切れません。
   父上・弘様と当西條の地で面接以来、行く年、行く年を交通で語り合った親睦の御附合でした。
   眞に悔み切れません。
   今后、御互いの土産品の交換も出来ません。
   今年も賀状は渡しました。悪しからず。
   御長男様も父弘様と当西條御出になった事もありましょう。記憶して居ります
   諸用事は老婆心ですが御伺かてして置けばと思い申し上げます。
   当西條町上三永に(私の隣接地)御父上様(弘)の不動産の事等ですが、今后如何になされますか。私の出来る事が有れば、遠慮なく御連絡下さい。
   終り位分多謝を筝しました。御悔み房御接賀達、御一同様の御多幸を祈り委礼申し上げます。
   平成10年(1998年)12月17日
                          玖島秀雄
   山本信雄様

2.新庄 信 殿(新潟工事(株)取締役社長)より
   冠省ご免下さいませ。
   この度はお手紙で御尊父様にはご養生の甲斐もなく、他界のお知らせを承り大変驚きました。遅れ馳せながら謹んでお悔みを申し上げますとともに衷心からご冥福をお祈り申し上げます。
   御尊父様の波乱万丈の人生足跡にはただただ敬服するばかりでございます。
   顧みなすとご尊父様には昭和46年(1971年)弊社にご入社いただき以来13年の長きに亘り持ち前の誠実なお人柄と日本石油さんで蓄積さた豊富な技術経験、知識と相俟って関西地区を中心に取引先の新規開拓、お客様との友好関係の維持などその功績は枚挙にいとまがありません。
   弊社は平成8年(1996年)5月横浜市内に新社屋を新築しました。これも偏に多くの諸先輩のご尽力の賜物でございます。厳しい経営環境の中、本年は創立45周年を迎えますが、更なる経営基礎の強化に努力する所存でございます。
   まずは取り急ぎお悔みを申し上げます。
                              草々
   新潟工事株式会社
   取締役社長 新庄 信

3.真木 雅昭 殿(新潟工事(株)鹿島事業所)より
   前略
   先日、ご丁重なご挨拶状を賜り厚く御礼申し上げます。
   私は、現在新潟工事株式会社鹿島事業所に勤務しておりますが、お父様山本弘さんが当社の大阪出張所時代に大変お世話になりました。この度お手紙を拝見して、深い哀悼の意と生前のご厚情に対して厚く御礼申し上げます。
   私は、昭和47年(1972年)10月から翌年4月まで日本石油株式会社安治川油槽所の近代化工事のため、当時勤務していた川崎事業所から出張しました。大阪出張所で山本さんが古巣日本石油の営業を担当しておられ、色々とお世話頂きました。初めての大阪で不案内だろうと、(大阪市)野田のご友人の持ち家に借家住まいささせていただいたり、貸し布団の手配など細やかな配慮をして頂き大変助かりました。
   また、年末年始に出荷ピークのため、工事が2ヶ月ほど中止になりました。この間山本さんに言われて営業見習いを経験させていただきました。山本さんが、いろんな顧客に営業訪問する際同行して、いわば足手まといであったと思いますが、挨拶の仕方、会話の進め方、顧客への気配りなど貴重な体験をさせていただきました。当時、25歳で礼儀作法もまともに出来なかった私にとって、この体験は大変勉強になりました。
   大阪出張所に通って営業見習いの2ヶ月間、仕事が終わると「飯食って行こう」と食事の心配までしていただき、大阪駅の地下や営業所周辺の行き付けでご馳走になりました。
   お酒を飲みながら、日本石油時代の苦労話や体験談をお聞きして、全国各地に石油販売網確立のため猛烈な仕事をされたとの印象が今も残っております。ただ、苦労話も明るく前向きで、私もいつか大きな夢のある仕事をしてみたいと思うほどでした。
   とりとめもない思い出を書いてしまいましたが、大阪でお父様にお会いして色々教えていただいたことが、私の企業人生に良い影響を与えてくれました。優しいが仕事には厳しい良き上司、大先輩でありました。心からご冥福をお祈り致します。
   最後に、ご家族のご健康をお祈り申し上げます。乱筆乱文程、ご容赦願います。
                              草々
   神奈川県三浦市     真木 雅昭
   平成10年(1998年)12月24日


4.大庭 幸雄 殿より
   拝復 この度突然のお便りを頂き本当にびっくり致しました。封書のお名前(長男の信雄)を拝見した段階では想像もつかず、間違いの手紙ではないかと思ったのですが本文を読んでやっと納得したような次第です。
   貴方の父、山本弘さんと私の出会いは確か小樽、札幌の勤務の溶きであったと思いますが、ひょっとしたら、大阪でもご一緒だったかも知れません(なにしろ40年程前のことです)がお手紙を読むにつれ、て当時の事を思い出して感慨にふけっております。
   お父上は日石退職後新潟工事大阪出張所に勤務されたそうですが、私はその頃日石の子会社の日石伊藤忠におり東京本社で勤務いたしておりましたが、山本さんの消息も知らず今日に至っております。
   お手紙によりますとお亡くなりになったそうですが、何も存ぜず、失礼申し上げました。遅れ馳せながらここに心よりお悔み申し上げる次第です。
   私事で恐縮ですが、私は来年一月で満84歳になります。17年ほど前に妻を病で失い、子供たちも独立しここ13年ほどは独り暮らしを致しておりますが、幸い健康にも恵まれ。いろいろなボランティア活動を心の支えにして過ごしておりますのでご放念下さい。
   最後に、葬儀云々とございましたのでそのお言葉に甘え、ささゆかなお線香ですが別便でお届け致しましたので、ご仏前にお供え下さいますようお願い致します。
   では、重ねてお父上のご冥福を祈り、お悔やみの言葉と致します。
   向寒の折りから皆々様お自愛専一のほど祈り上げます。
                              草々
   横浜市旭区     大庭 幸雄
   平成10年(1998年)12月24日

5.岡村 辰雄 殿より
   昨日、山本様のご訃報に接し、突然のこととて大変驚いているところでございます。あの柔和なお顔が、目の前に浮かんで参ります。もはや1回忌をお迎えになられるとは、全く知らないままで過ごしておりました。この1年間の失礼をお詫びし、心からお悔やみを申し上げます。
   私は現在70歳で山本様の12年後輩に当たる者でございます。日本石油(株)に28年間務め、引き続いて、新潟工事(株)に12年間勤めました。会社生活を終え、現在4年半を経過いたしております。日本石油(株)においては、営業所および支店勤務の期間が6年半ありましたので、山本様には、ずいぶん前から直接・間接ご指導をいただいておりました。私にとって、山本様は大先輩でございました。
   このたぴ、山本様のご生涯の出来事を、詳細にわたってご丁寧にお知らせ下さり、誠に有難うございました。繰り返し、読ませていただきました。いま、思い起こしますと、新潟工事(株)に私が私が勤め始めた頃、同社の大阪出張所にご挨拶に伺い、お会いしたことがありました。すでに10数年前のことになりますが、その日の夕方、ゆっくりご相談できる機会を与えて下さいました。そのとき、山本様は終始にこやかにお話をされていましたが、このたびお知らせいただいたご生涯の出来事と、そのときの状況とを重ね合わせて考えますと、感無量の思いで一杯でございます。
   さいごになりましたが、ご家族ご一同様の今後のご多幸を願いつつ、改めて、亡き山本様のご冥福をお祈り申し上げます。
                              敬具
   横浜市緑区     岡村 辰雄
   平成10年(1998年)12月15日


6.木村 登 殿より
   前略
   昨日はお父様弘様にかかわる長文の歩みと御苦労された足跡というお知らせを頂き、 札幌時代からの喜びと悲しみに綴られた歴史に愛惜を禁じえず、今更ながら日々の流れを感じ得ませんでした。今は只御懇情に思いを残し、お手紙は貴重なものとして保管いたしてご冥福をお祈り続けたいと思っております。
   寒さに向かう折柄、御自愛専一になさいます様お祈りしつつ、御多幸をお祈りいたします。
                              旬〃
   平成10年(1998年)12月17日
   千葉市緑区     木村 登

7.木村 佳子 殿(千葉市緑区)より
   今年も残り少なくなってまいり、心せわしくなってまいりました。 今年も押迫ってまいりました。
   すっかり御無沙汰致しておりましてお詫びの申し上げようもございません。おゆるし下さいませ。 其後、如何がお過ごしでいらっしゃいますか。心の片すみで何時も奥様のことをご案じ致しておりましたが、私も老化がひどく難聴でお電話をおかけ致したのですが、聞こえないので、ご迷惑をおかけ致してしまいますので失礼致しておりました。
   昨日、信雄様(長男)から素晴らしい、素晴らしいお手紙を頂戴いたしまして、ただただ感きわまっており、その感激は今だになり止みません。
   ご主人様の一生は、私共の知らない事ばかりのことで、本当に本当にご立派なご立派な方でいらっしゃいましたのですね。お若い頃ご苦労なさいましたことなど、みじんも態度に見えませんでした。 何時もにこにこと頭の低い心のお優しい人柄のよいご人格者でいらっしゃいましたものね。何だか、筆舌には現すことの出来ない思いで一杯でおります。
   ご主人様のご冥福を心から御祈り致しております。
   どうぞ、お寒さの折く柄ご自愛専一になさって下さいませ。
   平成10年(1998年)12月17日                               かしこ
  山本 美枝 (山本弘の妻)様


8.湯浅 千恵子 殿(大阪府高槻市)より
   今年も押迫ってまいりました。
   先日御子息様より御便りを頂きまして有難う存じます。一時お便りがなかったので何をなさいましたのかとお案じしていました。御主人様の御逝去にてびっくりしています。少しも存ぜず、失礼致しました。
   御丁寧なお手紙を頂きました。御苦労がございましたのね。あの当時の若い人は皆々戦に出てね、大変でしたね。私の兄も中支(中国中部)に行き、マラリアにかかって故郷へ帰り、1年後に又大東亜戦争に召集されて戦死致しました。変掛在亜は大変御古話になりましたね。ほんとに有難う存じます。アツく御礼申します。お正月を迎える度に何時も思い出しています、真赤に実った南天の木を澤山頂き、お床の生花に部屋一番に見る花が咲き賑々しく新年を迎えては感謝していました。御主人はお元気な方でしたので仲むつまじくお幸福にお過ごしの事とばかり思っていまししたのに。
   さぞかしお淋しい毎日でございましょう。
   皆様御元気で何時迄も仲良くお過ごし下さっているとばかり思っていました。判らないものですね。夢にも思いませんでした。(大阪府)高槻も変わりましたよ。斎藤様ご両親も他界され、佐野様の奥様も、芦田様も御主人が他界されたと聞いています。もう少し近くにいましたら御伺いさせて頂きますのに申訳ございません。又、此方にお出の節は必ずお立ち寄り下さいね。お待ちしています。お淋しいでしょうが、お気持ちをしっかり持ってお体には充分にお気をを付けてお過ごし下さいませ。
   皆様のご健康をお祈りしています。
   大変失礼ですが、高槻在中にお世話になりました。ささやかな私の御礼でございます。御霊前にお供え下さいませ。
                              かしこ
   平成10年(1998年)12月27日
                              千恵子
   山本 美枝 様

9.佃 勉 先生(国立茨城高専名誉教授、神奈川県茅ケ崎市)より
   拝啓
   お父様が昨年おなくなりになられたとのことで、ご愁傷さまです。先生(私・信雄)が高専にご赴任のとき、私の家内がお父様にお会いしたことがあるそうで、大変おやさしい方のようにお見受けしたと申しています。
   先生のお手紙にあれだけ詳しくお父様のことを記されて、お父様を偲ばれていらっしゃること、先生は親孝行ですね。あらためてお悔やみ申し上げます。

   高専を私が退職してからもう13年の余が経ちますが、その間も先生にはいろいろと教えて頂いたりして、親しく文通をすることが出来ました。おかしく思えるかも知れませんが、機械科にはそのような先生は居ないのです。
   お悔やみの手紙にこのような本を同封しては申し訳ないと思いますが、一寸お許し下さい。「カーブス」は私の最後の著書なのです。
   それもこの最悪の時勢と重なり、出版社との話し合いで、本のページを私自身がパソコンで打って本の元を作り、印税はなしということ出版社と合意したのですが、この種の本は仲々売れないということで出版社には気の毒です。
   先生には今までも私の私の本を買って頂いていますので、今回は寄贈いたします。外に数学科にも一冊寄贈しました。そして今度はお願いですが、図書館に備品として置いておくように手配して頂けませんでしょうか。出版社が少しでも助かりますから。
   カーブスの由来は、はしがきの中に書いてありますが、内容は旧制の水戸高校で習った曲線に関する講義などを現在の高校程度の知識で理解できるように、やさしく解説したものです。更にバラエティわ与えて面白くするために、関連する図形的な事項が加えてあります。

   高専から送られて來る校蔀を見ていますと、最近は高専も仲々大変で、私達の時代のような、のんきな高専ではなくなったようですね、それはそれとして、先生のこれからのご研究も、興味をもって期待しております。尤も専門的かつ高度なので、砕けた説明がなければ私には分からないでしょうけれど。
   それでは、お体に気を付けて良いお年をお迎え下さい。
                              敬具


10.大月 雪枝 殿(奈良市)より
   此の度は心よりお悔み申し上げます。
   毎日がお淋しい事と御察し申します。
   今頃となりまして誠に申訳ございませんが、御主人様の御好物でもお供えいただけましたらと存じまして、同封いたします。
   奥様もあまり気落ちされずに、呉々も 御身おいとい下さいませ。又何時の日か、お目もじの日が来るのを楽しみにお互い頑張りましょう。
   平成10年(1998年)12月18日
                              大月
   奥様


11.松本 アイ 殿(仙台市泉区)より
   すっかり御無沙汰申し上げております。
   先日、信雄様からの御書面でびっくりいたしました。
   丁度、私も体調くずしてる時で、思うに任せずまかせず、失礼いたしました。先週金曜日からずっとお宅にお電話いたしましたが、お留守のご様子で、
   奥様に、おくやみ申し上げたくて、字も思うように書けませんので、またお電話さして頂きます。
   とりあえず、乱筆にて、失礼いたします。
                              松本 アイ
   山本 美枝 様



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Updated: 2007.3.15, edited by N. Yamamoto.
Revised on Jul. 17, 2013, Nov. 17, 2014, Mar. 02, 2015, Mar. 16, 2015, Dec. 30, 2015, Aug. 18, 2019, May 05, 2020, Jan. 10, 2021, Jan. 28, 2021, May 08, 2021, Mar. 28, 2022, Apr. 21, 2024, Apr. 22, 2024, Apr. 28, 2024. Apr. 29, 2024, May 01, 2024 and May 02, 2024.